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【大阪考】#5 大阪基礎考察4 「オチどこやねん?」は怖くない。


東京で結婚式を挙げたとある友人、その二次会でのこと。

新郎の友人(東京の人)が新郎と新婦のなれそめを新郎からこう聞いた、と語っている
ふたりの出会いは劇的、というほどでもないが偶然の出会いで、
必然的に魅かれあい、一回目のデートで彼のほうから「付き合ってください」と彼女を見送る駅の改札で告白し、
すでに改札を抜けていた彼女が改札の向こうでにっこり笑って頷いた。。。
というほっこりエピソード

とそこへ、「オチ、どこやねん」という声が聞こえて、場は一瞬凍り付く
そこで同席していた大阪人の新郎はにやりと笑って、こう答えた。
「すでにめっちゃ好きになってたけど、改札で笑う彼女、あれには「オチ」たで
と。

ああ、美しい。
なんとも素晴らしい「オチどこやねん」に対する返しである。

さて、
多くの大阪以外人の人から聞く、「大阪人のイヤなところ」の代表格の一つは、
この「オチ、どこやねん?」と聞きいてくることであろう。
こちらは気分よく楽しく出来事や思ったことを話しているのに、
なぜ、オチが必要なのか
自分が楽しかった話、つらかった話、感動した話をしているのに、
なぜ、オチが必要なのか

大阪人は「オチのない話」をなぜ許さないのか!

と、ここで僕は疑問が出てくる。
本当に、大阪人はみんな「オチ」を求めてくるのかしら?と。

確かに、「オチのある話ができる」というスキルは大阪人にとっては他地域の人よりはコミュニケーションにおいては重要度が高いとは思う。
起承転結がうまく構成され、洗練された言葉選びと、オチに至る前に、話のポイント、ポイントで小さな笑いを置いていく、というスキルまであれば、
大阪人だけでなく日本全国においても「高いトークスキルを持っている」と言えるだろう。

と、ここで記憶を思いめぐらせてみると、気が付くことがあった。
「高いトークスキル」を持つ大阪人は「オチどこや?」というワードをそう簡単に使っていないのではないだろうか、ということである。
これは考察のし甲斐があるのではないだろうか。

まず、「オチどこや?」というワードが出るシチュエーションを考える。
相手が大阪以外人の場合、多くの割合でオチの無い話となる。
いろんな話題がちりばめられて、話が「だったんだよね」で終わった瞬間
オチ、どこ?」というワードが入る、としよう。

そこでちょっと立ち止まって考えてほしい
そもそも、その「オチどこや」はその話が一段落した後に放り込むのに適した言葉なのだろうか。
答えは「否」である。
話をする本人はそもそもオチが必要と思っていないし、実際にオチが必要な話題を話しているわけではない
相手に対して情報を与える、もしくは相手から共感を得るために話をしているのであって、
「オチ」によって「笑い」を取るためにその話題を語り始めたわけではないのだ。
したがって、その「オチどこや」はまったく不要な音声である。

つまり、この場合の「オチどこや」は全くの無責任な放言であり、
話者への尊厳をかけらも感じさせないのである。
よく考えれば、「オチどこや」を発言した本人は、相手の話を尊重していない上に、
自分でその話題を拾い上げたり展開してみたり、ができない、と宣言しているのと同じではないのか?
まさに、「私は話を広げて面白くするスキルがありません」と言っているのと同じなのである。

本当に面白い大阪人は、こういう時、決して「オチどこや?」と聞くことはない。
相手のオチの無い話を丁寧に聞き、話を展開し、むしろその話題に絡めてオチを作ってみせて笑いを取っていくのである。
なにしろ、大阪以外人は「オチのある話をする」という訓練を受けていないのだから、「オチのある話」などできるわけもないとわかっているのであれば、
「オチどこや?」でムダに切り込むのではなく、「そうなんだ」と受け入れることができるはずである。
要するに、話の展開力、構成力のある高いトークスキルの持ち主はオチを相手に求めなくてもよいのである。

話者が大阪以外人、ということの反対、つまり話者が大阪人の場合はどうだろう。
実際に「オチ、どこやねん」という言葉が発せられるときは、
基本的に「俺もおもろい話あるで」という枕ことばからスタートしながら、まったくオチのない話が披露されてしまった時である。
その場合は、「おもろい話あるで」といった以上、最後はオチで笑いを取れないのであれば、最後まで責任持たんかい、という厳重注意を笑いを交えておこなっているにすぎない。
訓練されていいる以上、そして前提条件で提示した以上、「オチはどこにあるのだ」は当然の要求なのである。
これが、よりトークスキルの鍛錬を積めるのだ。
ああ、大阪人、やっぱりメンドクサイぞ

「面白い話」の重要度が大阪人と大阪以外人では違うのだから、大阪以外人はオチのある話をする必要はない
なので、大阪以外人が「オチどこや」と言われたら、
あ、この人、大阪では面白くないほうの人なのね」と思ってもらって構わない。
逆に冒頭のエピソードのように、
「オチどこや」と放言した人物より、見事にその放言を打ち返した人物を目にしたら、
あ、この人、大阪でも面白いほうの人なのね」と思ってもらって構わない。

この「オチどこや」について、
「大阪人に『オチどこや』ってツッコまれちゃうんだよねー」という言葉を聞くが、
この考察で考えると、大阪以外人に浴びせられる「オチどこや」はツッコミではない
単なる「放言」であり、「雑音」と思ってもらって構わないのだ。

多くの大阪以外人に不快、不安な思いをさせてしまっているかと思うし、
実際に思いをさせていまっているわけだが、
本当に面白い人は「オチどこや」なんて言葉を発することはないので、
面白い大阪人と面白くない大阪人をフィルタリングするいい目安だと思ってもらえれば良い。

大阪人、大阪以外人に限らず、
本当に話の面白い人は、相手の話も面白くすることができるものである

相手の話の腰を折らないように質問して話を展開させたり、エッセンスを引き出したりすることができる。
そして、いつの間にか面白い話をしようとしてもいなかったのに、いつの間にか面白い話に仕立てられていたりする。
トークスキルの高い人は、相手のトークまでも面白くすることができるのである。

なので、大阪以外人は胸を張ってオチのない話をしてほしい
もし、「オチどこやねん」と言われたら、
お前が面白くしてくれよ!大阪人だろ!」と答えるのをおススメする。
その時こそ、その「オチどこや」を放言した人物のトークスキルの真価が問われるのだ。知らんけど。

さて、ちゃんとこの話、「オチてる」かしら?
「考察」なので、少々オチてなくてもお許しを。
あんまりオチのことばかり考えてたら、オチオチ考察もできたもんじゃないですもん。
なんてね。


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