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【大阪考】#6 大阪基礎考察5 誤解です。「関西人はなぜどこへ行っても関西弁でしゃべるのか?」

関西人って、なんで東京でも関西弁でしゃべるのか?
と聞かれるが、大きな誤解である。

どう大きな誤解か、これはちょっと細かく考察を交えて触れないといけない。

まず、
そもそも、について考える。
大阪で生活していると、この「関西人って・・・」について、おや?と思う。
そう、大阪でも、
「あー、この人、東京の人やな」とわかる「東京弁」でしゃべっている
じゃないか。

この
「関西人はなぜどこでも関西弁でしゃべるのか?」
という質問を「関東人」にしてみたい。
「関東人はなぜ大阪でも関東弁でしゃべるのか?」
である。

これを東京から大阪に転勤してきた人物に聞くと、非常にシンプルな回答が返ってくる。
「大阪弁は難しいから」

その通り!
我々関西人も関東弁は「難しい」のだ!
なので、
「関西人はなんでどこでも関西弁でしゃべるの?」という質問の答えは
関西人にとってもいたってシンプルなのである。
「東京弁は難しいから」である。

しかし、昭和30年代生まれの大阪出身で若いころに上京して東京で仕事をしていた先輩がこう言っていた。
「僕らの年代の人間は『関西弁は品がない』『関西弁はコワイ』と先輩・同僚によく言われたので、「標準語」に直したよ

今思えば、なんたる多様性を認めない、狭量な話だ、と思う。
どの位置から見て「品がない」のか?どういう認識で「コワイ」のか。
僕から言わせると、相手の地元の言葉を否定するなんて、相手のルーツに対するリスペクトのない行動で、それこそ「品がない」し、「コワイ」と思う。
にも拘わらず、自己中心的なマインドの人物たちのせいで地元の言葉を否定され、矯正を強いられた、と思うと正直悲しくなるのだ。

もちろん、この関西弁のイントネーションやワードチョイスについては、さまざまなニュアンスがあるが、それは違う地域の方言で慣れ親しんだ人からは細かい差異まで伝わらず、そのせいで十把一絡げで「関西弁」とされ、異質なものなので「品がない」「コワイ」とされていたのであろう。
昭和の時代は多様性はあまり認められていなかったであろうし、「郷に入れば郷に従え」だったであろうから、むしろ時代が進んで、東京で関西人が胸張って関西弁をしゃべれるようになって、いい時代になった、ということなのかもしれない。

とはいえ、
「関西人はなんでどこでも関西弁でしゃべるの?」という「なんで」についての物理的な理由「難しいから」というのは間違いないのだが、
関西弁をしゃべり続ける「心理的な理由」もあるのではないか、とも思う。

これは、まず僕個人の見解であるので、関西人全員ではないとは思うが、
僕は「関西弁以外でしゃべるとたちまち気持ちが言葉に乗らない」のだ。
東京で8年も仕事していれば、標準語は操れるようになる。標準語は平板でイントネーションも一様なので、それほど難しくない
実際仕事をしていて、初対面でかしこまった場の場合、「大阪出身なんですか?全然わかりませんでした」と言われることもあったし、それを狙っていた。
「いや、実は、大阪でんねん。って、「でんねんなんて」つかいまへんけどね」とひとボケ打てるチャンスになり、こちらを覚えてもらえるからである。
先方からすると拾いにくいボケだし、別に笑いを求めているわけでもないし、逆に慣れ慣れしくて不快だ、と思う人もいたのは承知の上で。
ただ、個人的な経験から言えば、「気持ちの乗る」地元言葉=僕の場合は「いわゆる大阪弁」で話すと、自分としても気持ちは乗るし、先方も東京の人とは言え、僕の「気持ちの熱量」が伝わるのかよく聞いてくれた、ということが多かった。
(もしかしたら「品のない」大阪弁に気押されていただけ、ということもあるかもしれないが)

関西弁でしゃべることで、相手にも「気持ちが伝わる」というのを経験してきた身としては、
やはりどこでもわがお国言葉でしゃべったほうが良い、と思うのである。

実際、大阪弁と標準語を両方使った経験から言えることは、
標準語には『行間』がない」という実感である。
あうんの呼吸というか、流れるような、というか、表現は難しいが、心情をイントネーションやニュアンスに乗せて自在に表現できるのが大阪弁、つまりお国言葉であり、
標準語は「事実」「情報」を伝達するには「共通のボキャブラリー」として優秀ではあるが、どうしてもお国言葉ではないので抑揚やニュアンスによって心情表現が難しい。
標準語=東京弁という図式で認識している人も多いような気がするが、標準語も東京弁も大阪弁と違うもの、と認識している大阪人からみれば、東京弁と標準語は別物である。
東京弁はお国言葉であり、標準語は日本語を標準化したものであり、どこの言葉でもないのである。
だから、標準語はむずかしくない。東京弁は難しいのである。

確かに、関西弁は目立つ。
東北弁でしゃべっている人は少ない。
そもそも、東北6県の総人口は850万人で、東海系と言える三重を除く近畿2府5県の総人口は2050万人。
3倍弱の人口なのだから、絶対数が違うのだ。そりゃ目立つ。

僕が東京に住んでいた時、青森出身のドライバーが乗るタクシーに乗せてもらったことがある。彼は標準語で話をしていた。そして、「東京でも大阪弁をしゃべる大阪人がうらやましい」と言ったのである。
そして、「津軽弁は東京の人に訛っている、と言われて笑われる」とも。
なぜ、青森弁が笑われないといけないのか。
東京の言葉が上なのか?そんなわけはない。文化と環境に根差して育った方言を笑う資格は誰にもないはずなのに、マイノリティを迫害し、嗤うのはなぜなのか。
たまたま東京に生まれ、自分が「標準」であると勘違いしている東京の人間が、その薄っぺらいアイデンティティの確保のためにマイノリティをあざ笑っているとしか考えられない。
東北のお国言葉は美しいではないか。

大阪弁も過去には前述のように笑われていただろう。
ただ、ここまで全国的に市民権を得たのは、関西から全国へ躍り出た芸人たちの功労が大きい。
彼らはお国言葉で笑いを取り、お国言葉で感情を伝えようとした。こうして長い時間をかけて認知を得たのも一つの要因だと思う。
大阪人は東京に負けたくない、とかライバル心がある、という人もいるが、ちょっと違う、と考えている。
「大阪と東京と、そんなに違わへんやんか。ていうか、違う、でもええやんか。ちゃんと通じるんやし、大阪弁のほうが楽やん」というマインドなのである。
言葉を使うコミュニケーションを大事にしているからこそ、心を、気持ちを乗せたい。それができるのは我がお国言葉なのだから。

若き日、お国言葉で友と語り合ったじゃないか。
ケンカもしたけれど、心は通じていたじゃないか。
若き日、お国言葉で好きな人に気持ちを伝えたじゃないか。
願いはかなわなかったけれど、想いは届いたはずじゃないか。

お国言葉に上も下もない。
おらが国のお国言葉に誇りを持て。

故郷への愛を表現して、何が可笑しい。
そう、僕らは心のある生きものじゃないか。
だからこそ言葉という特別なツールで心を伝えるのだ。

今回は最後に「知らんけど」は使わない。
きっとそうだと思うから。

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