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いいことを、書きたくない

いいことを、いい風に、書きたくない。つくるものには、つくり手の主観が入ってしまう。それは、どうしても、しょうがない。だって、それが、人がつくる意味でも、あるから。だけど、やっぱり、いいこと、として、書きたくないのだ。

というのも、毎日noteを始めてから、今日で2週間になる。まずは、毎日noteについての所感を、書いてみたい。

毎日、書くのは、今のところ、たのしい。日々、「あ、これ、noteに書きたいな」というネタが、浮かぶ。考えようと思って、考えているのではない。その気になれば、勝手に浮かぶようになったのだ。

そして、数日前のnoteにも書いたが、noteは、自分へのメッセージや、今までの思考の整理にも、なっている。私が文章で使う「あなた」という言葉には、過去の自分だったり、未来の自分だったりも、する。

これからアメリカに行くことで、どういう思考に変わっていくのか。もしくは、全く変わらなかったり、余計な何かが削ぎ落とされたりするのか。日々、書くにつれ、文のスタイルや身の回りに、どういう変化が起こるのか。

もしかしたら、将来、noteを見返した時に、「ああ、あの時は、若かったな。」となるだけかもしれない。だけど、それは、それで、いいと思っている。毎日投稿は、30日という時間をかけて、ここまでの思考を、残しておくものになっている。

で、今日の本題です。今も今までも、自分の言葉を書く時に、ひとつだけ、気をつけていることがある。それは、「いいことを、書かない」ということ。

ストーリーが簡潔だったり、展開の落差が大きかったりするものは、とにかく、わかりやすい。わかりやすく、反響を呼ぶ。わかりやすく、評価される。

だけど、私は、それを、せめて、自分の身の回りでは、やりたくないと思っている。そうすれば、多くの声を、集めないかもしれない。

それでも、やっぱり、派手に色をつけた自分で見られるのは、むずがゆい気持ちになる。それは、これまでの経験から、来ている。人の光ばかり見てきて、勝手に自分を苦しくしてきたこと。「本当」で、ちゃんと、通じあうことができること。この社会の中でも、前に進みながら、やっていける場所があること。

人はだれでも、多面的で、小さな揺れ動きがあるこということを、知っている。だから、その中で、出てくる小さな言葉を、大切にできる人がいい。それがもし取材なら、そこから、新しい何かの小さな関係が編みなおされたり、気づきがあったりするものを、生み出したい。

「まとまらない言葉を生きる」という本の中で、「想像力を、超えていけ。評価されるものは、人の想像できる範疇だ。」というような、言葉があった(詳しくは覚えていないけれど)。コンテンツをつくる人としては、ちょっと違うかもしれないけど、やけに言葉が残っている。

これから、色々、書いてみたいものがある。エッセイとインタビューはもちろんのこと。映画の構造分析や書評、詩、フィールドワークの記録、やってみた系・・・。

とにかく、自分の手に届く媒体では、色々と実験してみようと思う。読んでもらえたら、うれしいけど、決して、読まれようとは、しない。

だから、これからも、自分の「本当」だけは、大切にして、書いていこうと思います。どんな形になっても、まとまらなかったとしても。そこだけは、ちゃんと、やる。

ここまでの2週間、毎日読んでくれた人も、たまたま遊びに来てくれた人も、今日がはじめての人も、ありがとうございます。木村りさが、綴るものは、こんな感じです。

アメリカまでの残り2週間、毎日更新を、続けてみようと思います。ちょうど、折り返しに、来ました。

午前にnoteを更新したのは、はじめてでした。今日の東京は、雨模様。そして、じめじめしています。それでも、いい日に、なりそうな予感。

じゃあ、いってきます!


いつも、応援、ありがとうございます!サポートいただいたお金は、6月から約8ヶ月間のアメリカの留学費に全額使い、その体験を、言葉にして、より多くの人に、お返しできたらな、と思っています。