見出し画像

いつから短篇小説は読まれなくなったのか?

 短篇小説という媒体が黙殺されるようになって久しい。
 現在、ベストセラーとして名が挙げられる作品に、短篇集は入らない。ほとんどが長篇小説だ。
 唯一といっていい例外が、芥川賞だろう。あれは中篇ていどの長さにはなると思うけれど、話題にはなる。読まれることはそんなに多くないかもしれないが、どのような作家が取ったのかがニュースの種になる。それだけでも珍しいのだ、日本の文芸界においては。

 日本の一般読者の、短篇に対する態度はもはやアレルギーに近い。
 好きな作家の新刊が出て、喜び勇んでパラパラとめくり……それが短篇集であると気づいたとたんに、「なんだ、短篇集か」と落胆して本を戻してしまう。メディア化を機に原作本を手に取って、表題作が本の3分の1に過ぎない長さだと知ると、詐欺にでもあったかのように怒り出す。
 短篇は、とかく読まれない。喜ばれない。

 苦しまぎれに、作家は「連作短篇」なる手法を編み出した。
 これは、数十枚で終わる短篇小説を、キャラクターや世界観が共通する連続ものに仕立て上げることで、一冊の短篇集を見かけ上「長篇小説」にするというやりかただ。これであれば、まあ読んでもらえる。なんなら、数十枚ごとにひとつの話が完結するから、パッケージとして読みやすいものに仕上がる。
 現在、売れている短篇集は概ね、このかたちをとっているようだ。ほとんどが、エンターテインメントのジャンルに限られる話ではあるが。


日本文学においては、短篇が中心だった

 むかしは、そうではなかった。
 日本文学の中心は、間違いなく短篇にこそあった。

 その背景には、俳句や短歌といった短い詩歌の伝統があったのだろう。無駄をそぎ落とし、最小限のことばで多くを示すことが魅力とされた。三島由紀夫は日本の短篇小説を指し、「あれは詩として読むのがよろしい」と言っている。

というのはヨーロッパの近代詩人たちが、詩で表現しようと思うことを、日本の現代作家は短篇小説で表現したのであります。ですから日本の短篇小説の最高のものは、ヨーロッパでならば散文詩として書かれたものに近いものもあります。
――「文章読本」(三島由紀夫)

 日本において、短篇小説は散文詩のようなかたちで書かれた。
 明治期・大正期・昭和初期を通じて、文学を志すものはみな、まず最高の短篇を書くことで、名刺代わりにしようと思っていた節がある。ヨーロッパの作家たちが、まずそのキャリアを詩から始めたのと近いものがある(ヘッセ、ポー、ボルヘスなどが有名だ)。
 すぐれた短篇こそが作家の看板であり、長篇はそれに次ぐものとして扱われていた時期が、確かに存在した。

 同人誌という文化も、その傾向を後押ししたように思う。

 現在、同人誌ということばは、すっかりアニメ・マンガ文化に染められたきらいがあるが、もともとは文芸畑の用語である。
 有志が複数人で集まってお金を出し合い、一冊の文芸誌をつくる。それが同人誌というもののさいしょのかたちだ。

 同人誌は、掲載する原稿量に応じてお金を払う。貰う、のではなく、払うのである。利益らしい利益がまったく期待できない印刷物である以上、印刷費用を賄わなくてはならないからだ。長ければ長いほど、その小説の掲載にはよけいにお金が掛かるのだ。
 また、いわゆる長篇の長さになると、とうぜん一冊には収まりきらないから、複数月に渡って連載のようなかたちで誌面を占めてしまう。これじたい、ほかの同人たちには嫌われる。ただでさえ、貴重な誌面である。それをひとりの同人がながながと独占してしまうことは、嫌がられる。それを分かっているから、編集を担当する同人も、よほどのことがないかぎり、長篇小説の連続掲載に首を縦に振らない。
 いきおい、同人たちは、短篇小説ばかりを書くようになる。

 また、中央の文芸誌には、同人誌月評というコーナーがあった。
 各地に遍在する同人誌たちのなかから、今月もっともすぐれた作品を何作か選り抜き、批評する。とりわけ注目に値するものは、中央の文芸誌に転載されたり、出版社から声が掛かって出版に至ったりする。現代のように新人賞が多くなかった時代には、こういうルートでプロの小説家としてデビューする作家がほとんどであったのだ。
 こうした月評の土台に乗るのも、多くが短篇だ。続きものの長篇小説を、たった一回の掲載分で批評するという愚は、プロの批評家は犯さないし、おなじ同人誌のバックナンバーを当たって読み直すのも厄介だからだ。

 こういった理由がいくつも絡み合って、短篇中心という日本文学ならではの文化が醸成されていったのだ。


読者にとって、短篇小説は生活必需品であった

 また読者たちも、短篇を好んだ。
 昭和40年代ごろまでの日本は、中間小説誌の時代であったと言っていい。月間の小説雑誌が現代の少年ジャンプ並みの部数で発行され、サラリーマンや主婦がこぞって読んだのだ。

 こういった小説雑誌において、柱となるのはやはり短篇小説である。
 読者たちは、数十分の集中で読める短篇を好み、通勤電車のなかや、家事の合間にそれらを愉しんだ。
 まだ高度経済成長の波が残っているころの話である。日本人は忙しく、長時間かけてじっくり取り組む長篇小説よりも、みじかいスキマ時間にひとときの現実逃避をもたらしてくれる短篇小説を、よろこんだ。いまのサラリーマンが、腰を据えてプレイするコンシューマーゲームよりも、数分で1プレイが済むソシャゲにハマるのと、近いかもしれない。

 想像してみよう。
 きみは昭和のサラリーマンだ。朝刊を引っつかんで家を飛び出し、汗を拭き拭き駅へと向かう。通勤電車に乗るまえに、駅のホームで牛乳を買う。瓶に入ったそれをぐいっと飲み干し、ふと売店の店先に目をやると、そこにひいきにしている中間小説誌の最新号が並んでいるのを見つける。
 こいつはいいぞ、ときみは思う。
 朝から、政治家の汚職やら公害訴訟やらの記事を読まされて憂鬱な時間を過ごすより、よほどいい。ぱらぱら繰ってみると、毎月たのしみにしている池波正太郎も載っているし、手堅いところでは笹沢佐保もある。生島治郎のハードボイルドなんかもいい。朝刊なんぞで時間を使うより、よほどたのしそうだ。きみは発車のベルが鳴ったのに慌てて140円を支払い、その雑誌を手に入れる。電車のなかで、朝刊は書類鞄にたくし込み、さて、いざ、とばかりに雑誌の表紙を開く。
 こうして、数十分後。
 きみは、ひそかな高揚感や、胸あたたまるような思いとともに、通勤電車を降りてゆく。目尻ににじんだものをそっと拭い、周りの乗客に気づかれないようそっと鼻をすすると、どこかすっきりとした顔になっている。こうしてきみは、ひとの波に乗りながら、オフィスビルへと歩いていく……。

 なかなか、楽しそうじゃないか?

 こういう風景が、かつて日本には存在した。
 彼らの生活を支えるささやかな幻想が、作家たちの書く短篇小説であったのだ。ひとときの現実逃避は、明日を生きる活力の礎となる。ひとは想像の世界で戦ったり、愛し合ったり、苦難を乗り越えたりすることで、癒やされ、また厳しい現実に向き合うことができるようになる。こういう機能を担ってきたのが、かつては短篇小説の役割だった。
 生活必需品として短篇は読まれていたし、愛されてきたのである。


イギリスでは長篇小説の「三巻本」が隆盛を極めた

 では、海外ではどうなのか?

 小説の中心が長篇小説である――という認識は、やはり欧米においても同様だ。というよりも、古くから貸本屋や青本などの廉価版が整備されてきた関係から、小説は長ければ長いほどよい、という認識は向こうのほうがよほど強いと言っていい。

 三巻本、ということばがある。
 イギリスの貸本屋文化のなかで花開いた、長篇小説の構成である。

 イギリスでは17世紀ごろから、地方の温泉地・保養地を中心として貸本文化が花開いた。富裕層がバカンスのために滞在したとき、暇つぶしの娯楽を求めて本を読んだからだ。当時高価だった本を「わずかなお金で借りて読む」という習慣がイギリス人のあいだに広まると、出版業者・印刷業者たちはこぞって貸本屋の経営に乗り出した。大衆娯楽としての読書が、世界に先駆けて定着したのだ。
 貸本で読まれる、というのが中心であるから、必然的に、小説もその需要に合わせて書かれるようになる。特筆すべきは、書かれる小説がみな長くなったということである。三巻本というかたちを、貸本業者が望んだからだ。

 たとえば、きみが貸本業者であったとする。
 作家に小説を書かせる。面白い恋愛小説だ。実績もある作者だから、ネームバリューもあってさぞかし貸出数が見込めるだろう。しかし、この小説はずいぶん長かった。ふつうに一冊の本にしてしまえば、ひとりが読み終えるまでに時間が掛かり、回転率が悪くなる。そこできみはひらめく。
この長篇小説を、上巻・中巻・下巻の3巻構成にしてしまえばいいのではないか?
 こうすれば、回転率は上がる。
 しかも、一本の長篇小説を読み終えるためには、3冊を借りなくてはいけないことになる。3巻分の貸し出し料金が取れるという算段だ。
 これが、当たった。
 本はいつも貸出中となり、戻ってきた本が棚に並んだ瞬間に次の人間が借りに来るほどだ。とうぜん続きが気になるものだから、上巻を借りた客が中巻、下巻と借りていく。3倍儲かる。だというのに、作家に対しては1本の小説に対する報酬しか支払っていないから、お金はまるまる手元に残る。笑いが止まらない。
 こうなると、きみは味をしめるだろう。
 次に作家が新作を持ってきたとき、きみはどうにかして三巻本にできないかと頭をひねる。原稿が短ければ、描写や台詞の水増しを迫る。場面を追加させ、序文を書かせ、後書きを書かせ……それでも駄目なら、余白を広くしたり、行間を空けたり、大きな活字を使ったり、あらゆる手段を使って、三冊の本に仕立て上げるのだ。
 加えて、物語の流れも見直させる。一冊を読み終えたあと、続きを読みたいという強烈な渇望を、読者に抱いてもらわなければならない。そこで、上巻のラスト、中巻のラストに、引きを入れさせる。いまでいう、「クリフハンガー」という技法だ。主人公が絶体絶命の危機に陥ったり、謎の人物が登場したり、ついに謎が明かされるというところで打ち切ったり……現代の海外ドラマでよくある、例の手法である。こうなると、読者は続きを借りずにはいられなくなる。主人公は助かるのか、謎の人物の正体は誰なのか、伏せられていた真実とはどういうものなのか……それが判明するまでは、読み続けてしまうのだ。

 余談ではあるが、この手法をもっとも巧みに操ったと言われるのが、イギリス文学史にその名を残す大文豪ディケンズである。19世紀の物語文学は彼の登場によって極北に達したと言っていい。いま読み返しても、そのプロットの巧みさ、演出力のうまさ、キャラクター描写の卓抜さは群を抜いている。ぜひ「二都物語」をご一読いただきたい。

 このようにして、イギリスにおいては「小説は長ければ長いほどよい」という認識が醸成されていった。映画もテレビもない時代である。とにかく暇を持て余していたから、水増しされた台詞も描写も、読者はじっくりと愉しむことができた。消費者に、余裕があったのだろう。


フランスでは「新聞連載小説」が受けに受けた

 他国ではどうか?

 フランスには、新聞小説の文化が育っていた。
 機となったのは、その名も高き大文豪バルザックの登場である。
 小説家として名を上げることを目的としてパリへと上京してきた若きバルザックは、持ち前の浪費癖と見栄張りな性分により、食うに事欠く状況となっていた。そこに現れたのが、のちに新聞王と呼ばれる紳士ジラルダンだ。彼の導きによって新聞記事の仕事にありついたバルザックは、さまざまな文化記事を書き飛ばし、一端のジャーナリストとして名を上げる。しかし、調子に乗りやすい性分から、「こんなに儲かるならじぶんで新聞社を作って売りまくろう、そして世論を味方につけて代議士として成り上がろう」と決意し、完全に失敗した
 またしても一文無しとなったバルザックのもとに、ふたたび救いの手を差し伸べたのがジラルダンである。
 ジラルダンは言った。

こんどは、新聞に小説書いてみない?

 これが、世界初の新聞小説誕生のきっかけだった。
 当時、フランスにおいても小説単行本は高価で、庶民の手が届くようなものではない。一般大衆は読書クラブの会員となり、そこで本を読むしかなかった。新聞に未刊の新作小説を載せることができれば、さぞかし反響が大きいだろう。ジラルダンはそう読み、見事に的中させたのだ。

 まだ、一般大衆にとってバルザックという名前は、「小説家」というよりも「ゴシップ・ジャーナリスト」としての比重が大きかった。文化・風俗・ファッションといった面で、時代の最先端を打ち出していたバルザックの小説は、現代の流行を垣間見ることができる存在としても、おおいに受けたのだろう。

 1840年代になると、新聞で小説を読むという文化は、あたりまえのものとしてフランス全土に浸透した。客寄せのために各新聞がこぞって紙面に小説を載せ、やがてその小説の人気が発行部数を左右するようになった。
 アレクサンドル・デュマ、ジョルジュ・サンド、そしてもちろんオノレ・ド・バルザックといった作家たちが、歴史に残る名作・傑作を新聞に次々と発表し、紙面を賑わした。
 新聞小説が出るまで、一作あたり3,000~4,000フラン(現代日本でいうと300~400万円前後)ほどが相場であった原稿料も、この時代には10万フラン(1億円以上)があたりまえとなったというから、その市場規模の膨れ上がり方には驚くほかない。
 
 ちなみにバルザックの作品だが、現代では冗長に過ぎる服装描写、風景描写などを差し引いても、じゅうぶんすぎるほどに面白い。当時の一般大衆が熱狂した物語であるのだから、あたりまえだろう。
 ぼくのオススメは世界十大小説にも選ばれている「ゴリオ爺さん」だが、物の本によると「暗黒事件」などは、円熟期のバルザックがアメリカの西部劇に影響を受けて書いたアクション豊富な傑作エンタメ小説であるらしい。この機会にぼくも読んでみようと思っている。

 また、フランスの影響が強いロシアにおいても、新聞小説という文化は流行したそうだ。新聞小説を通して名を上げた作家といえば、ドストエフスキーが有名だろう。

ドストエフスキーには一目おきたまえ。ロシア文学界は彼を、新聞に連載小説を書くようなくだらない商業作家と決めつけ、才能もないくせに、金になれば精力的にものを書くやからと冷たくあしらった。しかし、五万人ものひとが、モスクワでの彼の葬儀に参列した事実を見れば、大衆が彼を支持していたことは明らかだ。そして、今日では彼の評価はきわめて高い。
――「ベストセラー小説の書き方」(ディーン・R・クーンツ)

 上の引用文は、ジョン・D・マクドナルドディーン・R・クーンツ宛に書いた手紙からの抜粋だとのことだ。このそうそうたるベストセラー作家たちの意見を聞けば、きみも大衆作家にして純文学作家であるドストエフスキーの手腕を見くびってはいられなくなるはずだ。
「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」といった作品群は、思想小説であるという認識が先立っているが、そもそも推理小説として傑作なのである。構えることなく、気楽に読みはじめてみるのがいい。筋をたのしむだけでも、じゅうぶんに得るところは大きい。


アメリカでは、雑誌文化が短篇小説を育て上げた

 さて、ここまでは長篇小説が優勢である国々を紹介した。
 では、短篇が文芸の主流を為していた国は存在するのか? 答えはイエスである。

 アメリカ合衆国。
 この新興国家においては、短篇が強かった。

 グレート・アメリカン・ノベルということばがある。
 偉大なるアメリカ小説、とでも訳するべきだろうか。こういうことばが、いっときアメリカ国内で流行した。アメリカには、国を代表するような偉大な文学作品が存在しない、というのだ。だからそういう作品を書かなければならない、という論調で、アメリカの文学界が湧いた。いまとなってみれば、なにを指して「偉大」というのかは判然としないが、そういう運動を通じて文学界を盛り上げたいという思いが批評家のなかにあったのだろう。とはいえ、共通認識として存在していたのは、「アメリカって長篇小説の傑作がすくないよね」ということだった。

 そう、アメリカには、長篇小説の傑作がすくないのだ。
 なぜなら、ピリッと切れ味の利いた短篇を最上とする文化が、ながらく支配的であったからである。

 一般に、アメリカ文学がひとつの絶頂に達したのは1920年代以降だと言われている。ロストジェネレーションと呼ばれる世代――アーネスト・ヘミングウェイ、ガートルード・スタイン、エズラ・パウンド、スコット・フィッツジェラルドら――が牽引した、第一次大戦以降の文学だ。
 それまで、朴訥とした田舎らしさを旨としていたアメリカ文学は、第一次大戦を通してアメリカが世界情勢に関わるようになってから、変化を余儀なくされたのだ。失望、空虚さ、暴力性、無意味さ……そういった要素が、アメリカ人の精神性を変えてしまったのかもしれない。
 この頃のアメリカ小説をひとことで語るなら、「ことば足らず」という印象が近い。なにかを語りきれていない感じがする。なにかを伝えようとして諦めてしまったような、不満足感。語り得なかったなにかが裏に存在する、不透明感。じぶんの抱く複雑な感情を示すことばを見つけられないというような、もどかしさ。そういう雰囲気の作品が多く見受けられる。
 ヘミングウェイの氷山理論は有名だ。「書かないことによって本質を浮き彫りにする」という特異な手法は、多くのことばを費やし、人間の心理を的確に描出しようとする、フローベールやトルストイの手つきとはまるで違う。
 そして、こういう作品群は、その性質上、短篇というかたちに向いているのだ。ロストジェネレーション世代は、すぐれた短篇を多く残している。
 とくに、ヘミングウェイの短篇は日本ではあまり読まれていないようだが、すばらしい作品が多い。機会があれば、「殺し屋」「インディアンの村」「海の変化」などを一読してほしい。語られないことが、あまりに雄弁に語りかけてくることに、きみはきっと驚くはずだ。

 さて、エンターテインメントの業界でも、このころ革新が起きていた。

 パルプ・マガジンの流行である。

 折しも蒸気動力の印刷機が普及した頃であった。大量に印刷物をつくることが容易となった状況下で、ダイム・ノベル(1ダイム=10セントで買える大衆向け三文小説)が流行っていたが、あるひとりの印刷業者が、複数のダイム・ノベルを一冊にまとめて、分厚い本をつくることを思いついた。

 その名も「アーゴシー」。
 史上初のパルプ・マガジンの誕生だ。

 それまでのダイム・ノベルは32ページが中心で、それをまとめた合本版も、4冊分128ページが最大だった。そんな業界に、192ページの分厚い小説集を持って殴り込んできたのである。これは衝撃だった。
 また、この雑誌は、それまでの少年向けではなく、大人を対象とした小説を中心に集めたことで、広告主にとっても訴求力が高くなった。やはり、少年よりも大人のほうが購買力が高いのだ。この試みは大成功を収め、アーゴシーは最初の6年間で50万部を売るお化け雑誌へと成長した。
 この成功を受けて、これまでダイム・ノベルを売っていた出版社は次々とパルプ・マガジンを創刊し始めた。

 1920年代には、以下のような有名雑誌が次々と100万部を達成した。

・アメージング・ストーリーズ
・ブラック・マスク
・ダイム・ディテクティブ
・フライング・エース
・ホラー・ストーリーズ
・マーベル・テイルズ
・オリエンタル・ストーリーズ
・プラネット・ストーリーズ
・スパイシー・ディテクティブ
・スタートリング・ストーリーズ
・ワンダー・ストーリーズ
・アンノウン
・ウィアード・テイルズ

(Wikipedia「パルプ・マガジン」より抜粋)

 受け皿としての媒体があれば、そこに載せられる小説が隆盛を極めるのはこれまで見てきたとおりだ。
 多くの有名作家が、パルプ・マガジンの安い稿料のために多くの小説を書き飛ばし、修行時代を乗り切った。とくにSFやミステリーといったジャンル小説のなかには、パルプ・マガジンに育てられたと公言する作家も少なくない。以下、パルプ・マガジン出身の有名作家を挙げる。

【SF】
アイザック・アシモフ
H・G・ウェルズ
アーサー・C・クラーク
E・E・スミス
フィリップ・K・ディック
ロバート・A・ハインライン
レイ・ブラッドベリ
アルフレッド・ベスター
オーガスト・ダーレス

【冒険小説】
ロバート・E・ハワード
エドガー・ライス・バローズ

【ミステリ】
レイモンド・チャンドラー
アーサー・コナン・ドイル
ジム・トンプスン
ダシール・ハメット
ジョン・D・マクドナルド
エルモア・レナード

【文学】
テネシー・ウィリアムズ
ラドヤード・キップリング
ジョゼフ・コンラッド
ジャック・ロンドン
オー・ヘンリー

(Wikipedia「パルプ・マガジン」より抜粋)

 こうして並べてみると、なるほど、短篇の名手と名高い作家が揃っている。


なぜ、いま短篇は読まれていないのか?

 こうして各国のメディアと小説の関係を探ってみると、なんとなく、現代の日本で短篇小説が読まれていない理由が分かってくる。

 要するに、「容れ物がない」のだ。

 イギリスにおける三巻本、フランスやロシアにおける新聞、アメリカにおける雑誌のようなものが、現代の日本にはない。
 昭和までは、中間小説誌というかたちで容れ物が存在していたものの、いまや、そういった雑誌群は急速に存在感をうしないつつある。

 一方で、長篇小説には恰好の容れ物である「文庫本」というものが存在している。1,000円を切る価格帯が主流で、多くは一冊でパッケージとして完結する。その一冊を持てば、完結したひとつの物語を手にすることができるという所有感もある。モノとしての魅力もある。サイズがおおむね統一されているから、コレクションもしやすい。同じ出版社、同じ著者の本を並べれば見栄えもする。

 一方で、短篇集は、モノとしては魅力に欠ける。
 一冊あっても、そのなかに好きな小説もあれば、それほど好きでない小説もある。こうなると、モノの魅力としては半減する。
 ひとは、「この本が好きなのだ」とは言いやすいけれども、「この本の中のこの小説が好きなのだ」というのは、なんとなく腑に落ちにくいものだ。たとえば好きだった小説が表題作でなければ、本棚に並べて背表紙を眺めたとき、その物語をふっと思い出すことも、起きにくい。
 こうなると、文庫本という容れ物の魅力が、活きない。

 理想を挙げるなら、アンソロジーというかたちであればいいのだ。
 じぶんにとって最高の短篇小説が、そこに並んでいる。そういう本であれば、愛着も湧くし、モノとしての魅力もぐっと増す。ただし、これも難しい。じぶんだけのアンソロジーが編めるならべつだが、市販されているアンソロジーとは、編纂者の好みに基づいて選ばれたものにすぎない。だから、これも完璧なマッチングは難しい。

 容れ物がなければ、そこに名手も育たない。
 かくして、日本の作家は長篇を書くことに長けていき、短篇小説を書く能力としては一段落ちるという結果に繋がっていってしまう。


では、どうすれば短篇が書かれる/読まれるのか

 まずは、場を用意することだろう。

 それは雑誌でもいい。新聞でもいい。貸本でもいい。しかし現代という時代を鑑みると、おそらくWEB上に場が存在するというのがいちばん望ましい。

 短篇中心の小説投稿サイトのようなものが、あればいいのではないか。

「小説家になろう」の水準で、書き手が集まり、それ以上の読者が集まる場所。そういうポータルサイトが実現できれば、じゅうぶん作家は育っていくだろう。理想を言うのであれば、それが直接マネタイズできるのがいちばんいい。生活のために書く……というかたちを取ったとき、ひとは熱心に書く。多くを書く。書かれたものが多ければ、そこに名作が含まれる可能性も上がっていく。そうでなくても、大量に短篇を仕上げた経験があれば、作家としての実力は上がっていくものだ。

 そういう意味では、小説を投稿する場としての「note」には、まだ可能性がある。ここには、エモーショナルなものを良しとする文化があるからだ。批判的な声が書き手に届きにくく作られているのも、よい。まだ「なろう」のようにある特定ジャンルの色が強く付きすぎていないのも、いいポイントだ。あそこまで「異世界転生もの」のようにジャンルイメージが固定化されてしまうと、作者と読者のマッチングは起きにくい。

 ただし、現時点では、まだ駄目だ。書き手に対して読者があまりにすくない。これでは、このサイトでの活動を通じて食べていくのは、不可能に近い。

 なにか、サイト全体が飛躍するきっかけが要るだろう。
 どういうものかは、まだ想像がつかないけれど。


以上である

 最後の部分については、また機会を改めてじっくり考えてみたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?