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2冊の写真集:「鎌鼬」と「 センチメンタルな旅」

写真集について書こうとしてもすぐに行き詰まってしまうのは、とくに名作写真集については語り尽くされていて、いまさら書けることなんてないからです。でも、2冊の比較という形であれば自分なりの言葉にできるかもしれない。ということで、名作中の名作である細江英公の「鎌鼬」と荒木経惟の「センチメンタルな旅」について個人的な思いを綴ってみます。


「鎌鼬」と「センチメンタルな旅」
どちらも読者を異世界に引き込む写真集です。

読者に「異世界を見せる」写真集は少なくありません。
でも、「異世界に引き込む」力を持った写真集がどれだけあるでしょうか。


出会い

二十数年前、その写真集について何も知らずに「鎌鼬」に出会いました。

北海道大学図書館の北分館。窓辺の書棚を眺めていると、白い背表紙の大きな本が目に留まりました(そこに「写真・細江英公」と書かれていなければ、手に取ることもなかったでしょう)。それは見るからに特別な一冊、写真集の範疇に入らない「異質な何か」でした。その「異質な何か」に取り憑かれたわたしは、それを借りて帰り、長い間自宅に置いて眺めていました。

復刻版の「鎌鼬」。段ボールの箱の中にスリップケースがあり、その中にプラスチックのカバーを纏った写真集があるという手の込んだ造りはオリジナルと同じものです。
上がオリジナルで下が復刻版。印刷が異なっていて、オリジナルの方が光沢がなく深い黒が感じられます。また、覆い焼きの仕方や、使われているコマが違うところもあります。このページでは空の焼き込み方が両者で違うことがわかります。

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一方の「センチメンタルな旅」はずいぶん前から名作として頭の中にその名前がありました。どんな写真集で、どんな写真が含まれているかも情報として知っていました。ただ、その希少さ故に、実際にその写真集を手にする機会はなかなか訪れません。それをちゃんと見ることができたのは、2016年に復刻版が出版されてからです。

オリジナルより少し豪華な造りの復刻版「センチメンタルな旅」。

「鎌鼬」はオリジナルが1969年に現代思潮社から、完全復刻版が2005年に青幻舎から出版されました。復刻版が出る時にすでに「鎌鼬」に取り憑かれていたわたしは、迷わず予約して購入しました。印刷の違いなどはあるものの、復刻版はオリジナルをかなり忠実に再現しています。1971年に私家版として世に出た「センチメンタルな旅」の復刻版が河出書房新社から出たのは2016年。待ち望んだ復刻ではあったものの、わたしが購入したのはしばらく経ってからです。それは所有するものではなく、イメージの中にあるべきもののような気がしていたのです。

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どんな写真集?

「鎌鼬」は舞踏家の土方巽を撮影したものです。
写真は、大きくわけて2つの時期に撮影されています。1度目(土方の髪が短い時)は東京と秋田を舞台に土方巽の行動を追いかけ、そこで起こること(土方が起こすこと)を撮影したもの、2度目(土方の髪が長い時)は「鎌鼬」的なテーマのもとに、それを演じる土方を撮ったものに見えます。「鎌鼬」は「自由な行動」と「演じられた世界」を組み合わせて構成されているのです(と、わたしは思っています)。

目を引くのは本の造りです。その大きさ、独特の装丁、覆い焼きや焼き込みが目立つプリント、意表をつくレイアウト。バリバリに攻めています。そして、写真のセレクトにも驚かされます。掲載されている枚数は少ないのに「なぜこれが?」というものも含まれ、その緩急は見事です(2009年の普及版では説明的な写真が増えたせいで逆に世界が狭められている気がします)。

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「センチメンタルな旅」は荒木さんと妻の陽子さんの新婚旅行を写したものです。写真集の中でも小さめな本で、108枚の写真で構成されています。

その全体像について知ることができたのは、2016年に開催されたコンタクトシート展(@IMA gallery)の時です。そこで写真集の元になったネガのすべてのコマと写真集を見比べて、驚くしかありませんでした。旅行中に撮影された写真は予想していたよりもずっと少なく、ほとんどすべてのシーンが写真集に採用されているのです。一部、順序が入れ替えてあるところもありますが、全体を通して「撮ったものを撮った順に並べただけ」です。

とは言え、一コマ一コマが本当にすごい。一見何気ない、写真に写されたものたちは、そのひとつひとつが異世界への先導者のようです。それらが連なることで読者の心を浮遊させるようなメロディが生まれています。

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2冊に共通する大事なことがあります。

どちらも異世界を撮っているように見えながら、こちら側の世界、「カメラを向けて写真を撮っていること」が写っているのです。「鎌鼬」にはカメラを意識した村人がいますし、「センチメンタルな旅」の写真からは「ここに立ってカメラを見て」という陽子さんへの指示が聞こえてきそうです。そういった「撮影の痕跡」を残すことで、写真集の中の世界が「完全な異世界」ではなく「こちらの世界とつながった異世界」になっています。

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異世界に引き込む力

「鎌鼬」と「センチメンタルな旅」
その「異世界に引き込む力」はどこから生まれるのでしょうか?

たとえば、それらの写真が額装され、美術館の壁に一列に並べられていても、写真集に感じるような「引き込む力」は感じられないのではないでしょうか。2冊の「引き込む力」は「写真集という形だからこそ持ち得た力」のような気がします。

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「鎌鼬」の造本(田中一光さんによるものです)が果たす役割の大きさは一見してわかるでしょう。それほど異質な本です。「鎌鼬」を見る時、その大きな写真集を床に置き、膝をついて表紙を開きます(わたしはそうやって見ています)。それは「儀式」です。神社で2礼2拍をするように青いページを1枚1枚開く、祝詞を聞くように三好豊一郎の詩を読む。それらの「儀式」によって読者は「鎌鼬の異世界」に誘われます。その大きさ、その様式には意味があるのです。

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そんな「鎌鼬」に比べると「センチメンタルな旅」は「普通の本」に見えます。でも、ページの中心にやや小さめに配された写真たち(1枚だけある縦位置写真も他の写真と同様に横向きに置かれていることもポイントです)。なにより、消え入りそうな淡いグレーの印刷によって、現実から少し離れた「見てはいけない昔の話」を見せられているような感覚になります。

「鎌鼬」は瀧口修造による序文があり、途中に三好豊一郎の詩があります。また「センチメンタルな旅」には荒木本人による有名な「私写真家宣言」が挟まれています。

また、両者ともに冒頭に「読ませる文章」があります。それを読ませることで、写真を見るための心構え、世界の受け皿を作り上げることに成功しています。

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体ごと異世界に引き込む「鎌鼬」
魂を異世界に誘う「センチメンタルな旅」

「鎌鼬」の異世界は「地」にあり、「センチメンタルな旅」の異世界は「宙」にある。この2冊は違う「異世界体験」をもたらしてくれます。

全く違うのにどこか似ている、
どちらも疑いのない名作です。


もうひとつ、「鎌鼬」と「センチメンタルな旅」に共通するのは、どちらの写真も高画質ではないということです(「センチメンタルな旅」はニコンFに20mm、「鎌鼬」も多くの写真がFで撮影されているそうで、広角レンズが多用されています)。もし、それらの写真が大判カメラや最新のデジタルカメラで撮られた高解像度のものであれば、写真集の持つ意味は全く違っていたでしょう。いや、ここまで魅力的なものにはならなかったはずです。解像度は現実感を左右する重要なファクター、高ければいいわけではないのです。

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「科学」と「写真」を中心にいろんなことを考えています。