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スナップを撮り続けるということ

今日も気象台では決められた時刻に決められた観測が行われています。

その観測データから分かる科学的な知識、低気圧の構造とか海陸風のしくみとか、そういったことのほとんどはすでに明らかになっています。ですから、例えばある日の観測データを気象学の研究者に渡して「なにか新しいことを見つけてください」と言っても困ってしまうでしょう。「午後に前線が通過して雨が降りました」と起こったことを解説することはできても、そのデータから新しい発見をすることはほぼ無理です。

写真についてのある話を聞いて、そんなことを思いました。

YouTubeには写真に関する動画がたくさんあります。とくにトモコスガさんのものが大好きです(おすすめです)。トモさんの情熱と、写真が好きでたまらない感じ、そして、言葉になりにくいものもちゃんと言葉にしようとする姿勢に敬意を持っています。

そのトモコスガさんがある動画の中で「スナップは表現として完成した」という話をされ、ご自身が行うポートフォリオレビューでは「もうスナップは見ません」と宣言されました。

この言葉を聞いて、妙に納得しました。

写真表現の先端を見ようとするトモさんにスナップ写真を見せることは、気象学者に「ある日の気象データ」を見せることと同じなのです。技法や写っているものの面白さについて解説できても、そこに表現としての新しさを見出すのは難しいでしょう。

一方で、毎日の気温や風速の観測を無意味だと言う人はいないはずです。それによって、今の気象状況を知ることができますし、記録を後世に残していくこともできます。これらは長く続けられてきた観測だからこそできることです。

同様にスナップ写真を無意味だと思う人もいないでしょう(もちろん、トモコスガさんもスナップ写真を否定されているわけではありません)。

完成された手法だからこそ、できることがあります。
例えば「被写体そのもの」に新しさがあってそれを見せようとするなら、完成された表現方法を使うほうが効果的です。「昨日の大雨がどれだけすごかったか」を知るために必要なのは、目新しい観測によるデータではなくシンプルな降水量の測定値なのです。

スナップの大切さはそれだけではありません。たとえ、被写体やそれを見る視点に新しさが感じられなかったとしても、スナップは撮られ続けるべきです。

スナップ写真は、以前書いた芸術の木についての話の中の「太い幹」です。木を支える重要な場所ではあるけれど、もう花はほとんど咲かない、そんな場所です。その先に新しい表現手法の枝が伸びていっています。でも、幹が不要になったわけではありません。新しい枝を支えるためにはスナップという幹が健全でないといけませんし、木を成長させるために幹はさらに太くならないといけないのです。

それは具体的にはどういうことでしょうか?

実際に最先端の写真表現に触れているのはごく一部の人です。多くの人は「写真」という一番太い幹しか知りません。その人たちから見れば、「モノクロの都市スナップ」や「秋祭りの人物スナップ」も新鮮な表現であり、まずそこに興味がいくはずです。「完成された表現」は「多くの人に受け入れられやすい表現」でもあるのです。そして、そこを通らないと、その先に進むことができません。つまり、スナップに魅力がないと、その先の「新しい表現」を試みる人やそれに興味を持つ人がいなくなってしまいます。

いわゆるスナップはこれからも多くの人に撮られるべきですし、もっと魅力的になっていかなくてはいけません。高校や大学の写真部に森山さん風の写真を撮る人がいるのは健全なことなのです。

これはスナップ写真だけの話ではありません。典型的なポートレイトや絵葉書的な風景写真も表現としてほとんど完成しています。そうした写真も、多くの人によって撮られ続けるべきなのです。今を記録に残すために、そして、新しい写真表現を生み出すために。

追記
もちろん、必ずしも写真を「表現」として考える必要はありません。自分の思うように自由に撮ればいいわけですし、そこにはなんの決まりも優劣もありません。むしろ、「表現」を意識していない写真のほうがだれかの気持ちを動かすこともあります。それでも、「科学」の進歩のために研究がすすめられるのと同様、写真の「表現」についての模索も続けられるべきです。空の色や雲の形を見て楽しんでいた少年が「科学」を知ることで新しい視点を得て世界を広げるように、写真の「表現」を知ることで写真にできることの幅は広がります。それは写真の撮り方や見せ方だけの話ではありません。「世界の捉え方」に関わることなのです。

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