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【『百人一首』と人生と】故郷へ帰りたいなぁ、父母は元気だろうか……(阿倍仲麻呂)


天(あま)の原(はら) ふりさけ見れば 春日(かすが)なる
 三笠(みかさ)の山に 出(い)でし月かも

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)

【意訳】
 唐(とう・中国)へ留学に来た私も、ようやく日本へ帰る日を迎えることになった。
 はるかに広がる夜空を見渡すと、美しい月が出ている。あの月は、昔、故郷・春日(かすが・現在の奈良市辺りの地名)の三笠山(みかさやま)に出ていた月と、同じ月なのだなあ。

イラスト・黒澤葵

【解説】
 夜空に輝く月を、阿倍仲麻呂は、どんな思いで眺めていたのでしょうか。
 奈良時代の日本は、中国大陸の進んだ文化や制度を学ぶために、多くの人材を唐(とう)へ派遣していました。それが「遣唐使(けんとうし)」です。
 仲麻呂が遣唐使の留学生に選ばれたのは16歳の時でした。夢と希望にあふれ、日本を出発したはずです。
 唐の都・長安(ちょうあん)に着いた仲麻呂は、当時の最高学府「太学(たいがく)」に入学します。日本とは言葉も習慣も違う国で、どれだけ苦労を重ねたことでしょう。
 彼は、唐の官僚に採用されただけでなく、玄宗皇帝(げんそうこうてい)の側近に抜擢(ばってき)され、活躍しました。日本の歴史の中でも、外国の皇帝に仕えて立身出世した人物は、他にほとんどいません。

 長期留学生の任期は約20年です。仲麻呂は、日本から遣唐使船(けんとうしせん)が来た時に、玄宗皇帝に帰国願いを出しましたが認められませんでした。それほど皇帝から「必要な人物だ」と信頼されていたのです。
 仲麻呂は、日本で両親が、どれだけ自分の帰国を待ち望んでいるかと思うと、胸が痛くなりましたが、どうしようもありませんでした。

 さらに約20年の歳月が流れました。再び日本から遣唐使船が到着したのです。50代前半になっていた仲麻呂は、今度こそ帰国したいと願い出て、ようやく許可が下りたのでした。
 船が出る前に、仲麻呂の友人たちが、浜辺で送別の宴(うたげ)を開いてくれました。歓談しながら夜空を眺めると、美しい月が出ています。仲麻呂は、かつて故郷で見た月を思い出し、この歌を詠(よ)んだのです。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる
   三笠の山に 出でし月かも」

 月は、昔の月と同じなのに、仲麻呂の人生は、予想もしない展開になりました。故郷の山河は変わっているだろうか、両親は元気だろうかと、懐かしい思いがわいてきたことでしょう。
 待ちに待った帰国でしたが、彼の乗った船は沖縄の近くで難破し、ベトナム方面へ漂流(ひょうりゅう)してしまったのでした。
 それでも命が助かった仲麻呂は、再び唐へ戻って、玄宗皇帝に仕えることになります。

 その後、仲麻呂は、古代朝鮮半島の国・新羅(しらぎ)の使節が唐を訪れた時に、「日本へ行くことがあったら届けてもらいたい」と言って、書状を預けました。
 新羅の使節は、数年後に日本を訪れ、仲麻呂の書状を無事に届けてくれました。実は、それは公的な任務報告ではなく、両親や親族へ宛てた手紙だったのです。
 親族は、仲麻呂が健在であることを知って、喜んだことでしょう。しかし、その手紙が日本へ届く約2カ月前に、仲麻呂は70歳で亡くなっていたのでした。
 再び三笠山の月を見ることはできなかった仲麻呂でしたが、故郷への思いだけは、届けることができたのです。

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
701〜770
奈良時代に遣唐使として中国(唐)へ渡った留学生。

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