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【断片的なものの社会学】断片から感じる孤独と希望

この読書日記は元々、livedoorブログに書いていたものを元に、若干加筆修正の上、転載しています。

そもそも、テーマや読者の反応を考えずに気の向くまま 書きたかった私は、livedoorブログがそういった気軽な感じで日記を書いてる人が多いのを見つけ、
始めました。

そちらは今、毎日の晩御飯の作り置きの記録と、子育ての日記になっていてほぼ家族しか読んでいないので、本や映画の感想などはnoteに書いていこうと思った次第です。



2年前にブログを始めた時に思ったのですが、最近は「テーマや読者の反応やPV数を考えずに気の向くまま書いたブログ」がめっきり少なくなった気がします。
特に取り留めのない日記っぽいものが。

やはりアフィリエイトやら何やらで小金儲けのためにブログをやる人が増え、
また有用な情報を手早く得られないと、ブログを読む価値がないと考える読者もまた増えているのでしょうか。


かくいう私もそんな誰にとっても無用な日記を書いて何の意味があるのか、と自問することがあります。

お金儲けはしないにしても、せめて読者層をイメージして、彼らのニーズを満たす、かつ斬新な切り口の記事を目指した方が良いのではないか、とも思います。

しかしやっぱり、誰のためでもなく自分が思ったこと、書きたいことを書きたいだけ書くブログにしよう、と思えたのは、最近岸政彦さん『断片的なものの社会学』という本を読んだからです。


著者の岸政彦氏は普段から「普通の、一般の人」の語りを収集したり、
日記形式のブログを読んだりすることを日課としているそうです。

こんな奇特な方がいらっしゃるんだ。でも何のために?


岸氏はそのように集めた普通の人々の生い立ち、エピソードを、断片のまま並べます。
それらを統計的にまとめて意味を見出したり、一般化したりはしません(社会学者なのに!)。


しかし全く知らない、これからも会わないであろう他人のエピソードや語りの断片を不意に突きつけられると、意外と印象に残ってしまうことがあります。



なんでだろうと思っても特に理由はない、しかしなんか印象に残ってしまう話。


以前、オードリーのオールナイトニッポンで、若林氏がこんな事を言ってました。

最近、オチはないし面白いわけじゃないんだけど何か覚えてる、って話を人から聞くのが好きで飲み屋でゴンちゃんに聞いたりする。

たとえばゴンちゃんが言ってたのは「小学生の頃、曇り空をふと見上げたら電線が道のずっと先まで繋がっていて、なぜかそれが気になって、電線を見上げながらそれを伝って下校していたら、ちょっと道に迷った」みたいな話。


こうした他人のエピソードに触れたときに私が感じるのは、人間の孤独です。
人のエピソードなんてだいたいゴンちゃんの電線の話みたいに、他人にとって無意味です。

わかりやすい意味やオチを持って相手に迫っていくエピソードなんて滅多にない。

むしろそれは上手いことまとめたり一般化した、嘘くさい作り話であることが多い気がします。

本当にリアルな話は他人にとって無意味なのです。
そこに私は人間の根源的な孤独を感じます。

それぞれの人間は断片です。
断片を集めてまとめても有用な法則や教訓は出てきません。



けれど著者はあえて、多くの人の生い立ちの語りやエピソードの断片を並べたまま置いておきます。

すると読み進めていくうちに、コミュニケーションの孤独の絶望感の中から、
何となく感じられるものがあります。

さっきの若林氏の話ではないけれど、オチはなくても何か聞きたい、何か覚えちゃう他人の話。

そこに私は、人間への愛とか、期待のようなものを感じます。


私は誰のために書いてんだろ、誰得だろう、と毎日思いながら書いていますが、
でもその断片が全く関係のない、見知らぬ誰かの心に河原の小石のように残って、小さな波紋を立てるくらいのことはあるかもしれない、とこの本を読んで思えました。

というわけでつれづれなるまま書いていこうと思います。

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