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オンライン授業と体調不良の関係性について


 私事で恐縮なのですが、ここ数週間、発熱(38度程度)と[下痢→快復→発熱(38度程度)と下痢]ということを、起き上がり小法師のように三度ほど繰り返していました(大学病院で診断してもらったところ、COVID-19ではなく、「腸炎」とのことでした)。というわけで、発熱+下痢をするたびに、大変しんどく、オンライン授業用のコンテンツを作ることもままならない状態が続いていました。
 さて、今回の記事で考えてみたいのは、こうした症状と、現在の大学の状況、つまり、ほぼ全面的にオンライン(授業だけではなく、会議などもオンライン)という状況の関係性です。私はこれまで四十年以上生きてきましたが、こうした発熱を伴う下痢(腸炎)となったことはなく、さらに一度快復した後に再びなることが繰り返されるということも新しい現象でした。勿論、加齢による体質の変化や日々の不摂生、運動不足などの原因によるものであって、全面オンライン化とは関係がないという解釈も可能ですが、個人的な実感としては、そうではなくオンライン化と密接に関係しているのではないか、という実験を持っています。またツイッターなどで、オンライン授業を受けている学生たちの体調不良をよく目にしますし、私の授業を受けている学生のなかでも体調不良を理由に休む学生は例年よりも多いという印象です。
 これらの状況を踏まえて、この記事では、医療関係者でもなんでもない身体の不調の当事者という立場から、現象学的に(?)今回の病について考えみたいと思います。

 オンライン授業と対面授業の最も大きな違いは、身体性の有無、より正確に言えば、身体性の濃淡のちがいでしょう。リアルでの対面授業では、教員の講義に対して、肯定/否定/無視などのさまざまな仕方で学生の身体的な反応(表情、姿勢、声など)がなされます。また、私の授業では、アクティブラーニングを導入していますので、そこでの学生の反応をリアルタイムで得ることもできていました。
 オンライン授業でも、リアルタイムで授業を行う双方向型授業の場合は、より相互の身体性(声や顔)を感じ取りやすく、それに対して、レジュメを配布して課題を提出させる資料配布型の場合は、身体性がほぼゼロとなるといえます。私の場合、パワーポイントで作成した動画を見ながら、配布した資料に記入していくという「オンデマンド型中心の資料配布型」といえる授業形態です。ただ、これで講義だけを行うと一方的となってしまうため、毎回授業の最初には、前回の課題に対する応答を行うことで、双方向性(教員⇔学生)を確保するとともに、他の学生の意見を紹介することによる疑似的な対話性(学生⇔学生)も実現できるようにしています。
 ここで重要となるのは、授業を録画しているとき、私は従来、対面授業で話していたように話している(従来の対面授業でもパワーポイントのスライド+資料を用いていました)つもりですが、実際には一人で喋っているわけであり、学生の顔の表情や息遣いといったリアクションを感じ取ることができず、また直接の言語的なコミュニケーションも欠如しているということです。
 以上のことは、オンデマンド型の授業を開始する前からわかっていたことであり、個人的には残念に思っていましたが、当初は自分の体調を崩す原因となるような、大きな問題であるとは感じていませんでした。前述したように、学生の提出した課題に対する応答を毎回行うことで、お互いにコミュニケーションできていると感じていたところもありますし、実際に、リアルなコミュニケーションではなかなか出てこないような意見や個人的な体験談を聞くことができていましたし、さらには課題の提出時期を比較的ゆっくりとすることで、時間をかけることによる思索の深まりを学生の回答から見て取ることができていました。また、たとえば一年生向けの「基礎演習」という25名程度の私の授業では、例年授業の中盤では欠席者が目につくようになりますが、オンライン授業の今年は、ほとんどの学生が課題の提出を続けており、またその提出物の内容に関しても、従来はグループワークを行った際に最初から諦めてグループのメンバーを頼るフリーライダーが出ましたが、今年は原理的にそうすることが難しいためか、一人一人が諦めることなく真摯に課題に取り組んでいることが伝わってきました。
 以上のことから、私はオンライン授業について、全面的に否定的というわけではありません。勿論、現在のオンライン授業のかなりの割合が、対面授業の劣化版であるだろうという現状は憂慮しておりますが、教員の工夫と努力によって、あるいは学生の適性によって、むしろオンライン授業のほうが学修効率が向上することはあるだろうと、それも大いにあるだろうと考えています。

 このように学修効率という点では、オンライン授業は一概に対面授業に劣るとはいえないだろうと考えていましたが、今回人生ではじめてというレベルでの自身の体調不良を経験して、別の観点から、オンライン授業の弊害を認知した次第です。
 それは第一に、前述したような、直接のコミュニケーションの不在による齟齬であり、そのことについての意識的/無意識的なストレスです。これはなかなか言葉にするのが難しい感覚でした。というのも、体調を崩すまでは、私も徒労感などは感じていても、その齟齬についてストレスを感じていることを自覚していなかったためです。現在でも、「今、ストレスを感じています」と断言できるようなわかりやすいものではなく、「おそらくそうなのではないか」というように曖昧にしか表現できないような感覚です。
 どういうことか、もう少し言葉を補って説明しましょう。授業の録画をする際には、パワーポイントの録画機能を用いて、動画を見てくれるだろう学生を想定して話しますが、実際には学生が頷いたり困惑したりする顔を見ることはないわけです。課題として返ってきたリアクションも、時間的な間隔が空いているだけではなく、文字となったものであるため、身体性が希薄となります。つまり、こちらは従来の対面授業と同様に喋っているにもかかわらず、従来は即座に得られていたリアクションやレスポンスが欠如しているという齟齬が、知らず知らずのうちにストレス、違和感として蓄積されていたのではないかと考えています。ボクシングにたとえるならば、実際の試合なのにシャドーボクシングをしているというか、シャドーボクシングをしているのに、実際に相手がいるというか、そういう違和感といえるかもしれません(すみません。ボクシングには詳しくないので、頓珍漢なたとえかもしれません)。
 このストレスは、リアルタイムでの反応が得られやすい双方向型授業や、そもそもリアルタイムでのパフォーマンスを行わない資料配布型の授業では、存在しないストレスなのではないかと思います。この指摘は、オンデマンド型の授業が、他の形式の授業と比較して大変だということを主張したいわけではなく、それぞれの授業形態によって困難な点はあるでしょうし、それぞれの授業形態でも、どのように取り組むのかによってその困難さは異なってくるでしょう。(ちなみに、双方向型授業特有の困難さ(ストレス)として、一方的に視られることのストレスがあるような気がしますが、それはまた別の機会に)

 今回の経験でわかったというのか、思い知らされたのは、人間は身体をもつ動物なのだという当たり前の事実です。私はこれまで人間の精神性を称揚してきたというか、精神だけでも大丈夫だし、そうなるべきだと考えてきたところがあります。別の言い方をすると、「肉体は魂の牢獄だ」というか、「水槽の中の脳」のような思考実験に抵抗を感じず、VRなどですべてが代替できればそれはそれでかまわないという立場だったのですが、どうやらそこまで単純なものではないぞ、と。たとえ現在の世界が架空のものであったとしても、それでも自分の声や動作に、こちらからの働きかけに反応してくれるものがいなければ、人間は失調するのではないか、あるいはさらに飛躍したことを述べれば、幼い頃からこのような状況に置かれた子供はまともには成長せず、様々な意味を見いだすことができなくなっていくのではないか、ということです。
 勿論、相手の身体性が希薄な状態で喋り続けることにストレスを感じないという方もいると思うのですが、自分はそうではなく、意外とリアルでの対面というものがないと、心身が不調になってしまうということがわかったといえます。言い換えると、従来自分で思っていたよりもドライではなく、ウェットであり繊細(脆弱)だったのだなあと、感慨深く自己認識を改めたということです。

 以上の話を反転させれば、最初に話した、オンライン授業を受けている学生の体調不良ということも説明できるように思います。通常、教員と同じ空間と時間を共有することによって、目の前で話している身体(姿や声、スライドや板書)に反応することが、授業を受けることだったわけです。それに対して、声だけ、文字だけというのは、身体性が極度に希薄となっているといえます。そのような状態は、授業の内容という情報それ自体は劣化していないとしても、学生自身が実際に受け取りうる多くの情報がカットされているといえます。(その多くの情報の中には、隣に座っている学生とのやり取りや、教室の雰囲気、空調の音なども含まれるでしょう)
 このような同じ空間と時間を共有しないこと、身体が現前しないことによる情報量が減少しているにもかかわらず、それを見なければならない/読まなければならないということ、さらに課題の提出という仕方で応答しなければならないというズレは、学生自身が仮に自覚しないとしても、違和感・ストレスとして蓄積されていくといえます。このことが頻発している学生の体調不良のひとつの原因なのではないかと推測します。つまり、よく「オンライン授業となって課題が多くなって大変だ」「(文字だけだと)説明が不十分でわかりにくい」ということを聞きますが、無論、課題の多さやわかりなくさも問題ですが、実はそれだけが問題なのではなく、オンラインで行われている講義に対応・反応しなければならないこと自体が、ストレスの原因なのではないかと考えた次第です。

 以上、医学的には全く見当違いかもしれませんが、病床で考えたことを記録として残しておきたいと思います。


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