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#ツイ哲20200810を終えて② 気づいたこと

 
 昨日の記事(https://note.com/kimurafumito/n/n9a7c3511d121)で書いたように、#ツイ哲20200810はルール設定などの点で改善の余地があるものであったと、自分では評価しているのですが、そのなかでも色々なことを気づかせていただき、むしろ初回、第二回目よりも学ぶべきことは多かったと思っています。この②では、ツイ哲を行いながら色々考えたことについて、書きたいと思います。

①哲学カフェ・哲学対話の本質について
 実践の途中で、とある知人である参加者の方から、「議論が整合的ではない/所々にずれがあるのではないか」というご指摘をいただきました。確かに、ツイートを見直してみると、通常の哲学対話でも散見されるような、飛躍や誤解と解釈できる箇所がないわけではありません。しかし、そのような指摘をされて、私が思ったのは、そのような飛躍や誤解といった「ずれ」が仮にあったとしても、それは哲学カフェ・哲学対話にとってなくすべきではなく、「あったほうがよい」のではないかということです。これは「ないに越したことはないけれど、あっても仕方がない」「なるべく少なくすべきだ」ということではなく、むしろこのような「ずれ」がなければ哲学対話をする意味がない、というくらいの強い主張です。
 また、以上の「ずれ」は必要であるだけではなく、複数の者がそれぞれの視角から発言する哲学対話においては、必然的なものであるともいえるでしょう。そして、このような「ずれ」は、多くの者が参加すればするほど、大きくなるといえます。このような「ずれ」は一人での思考においては生じにくいものであるため、哲学対話の妙味とは、このような「ずれ」の内にこそあるのではないかと考えられます。
そのことは、今回のツイ哲では、最も多くの方が参加したラインAが、様々な観点からの発想に溢れる豊かな対話となったことが示しているでしょう。ほとんど一対一の対話となったラインBとラインCに対して、複数の人間が参加したことで、ラインAの対話は相対的に多くの「ずれ」を孕んだまま進行していったといえるかもしれませんが、そのことが議論を活性化することに寄与したと思います(哲学カフェ・哲学対話の目的・成功が、議論が活性化することなのか、それとも厳密な議論がなされることにあるのかは難しい問題ですが、主催者としては議論が盛り上がることを第一の目的としていたところがあります)。
 また、これは個人的な感想ですが、一対一で質疑応答の繰り返しは、相手の意図の確認、こちらの質問の意味の確認を延々繰り返していることになり、何か重たい空気というか、哲学対話特有の軽やかさを感じにくかったです。そのように膠着した状態であっても、第三者が議論に参加してくれた途端、違った角度からの「ずれ」が生じ、議論が軽やかになるというように感じました。
 このように、「ずれ」を孕みながら議論が展開していったほうが、議論が活性化し、結果として哲学カフェ・哲学対話特有のダイナミズムが生まれるとすれば、それはなぜなのでしょうか? このことについては、また別稿にて主題的に論じたいと思います。

②ファシリテーターとしての役割の再考
 今回のツイ哲は、ファシリテーターとは何をする者であるのかを改めて考えるきっかけにもなりました。ファシリテーターの役割が「対話を促進する」ことであることは、ある程度共有されているといえますが、しかし実際にどの程度/どのように議論に介入するかはそれぞれの哲学カフェやファシリテーターの個性によって様々だというのが、現在の日本の哲学カフェ・哲学対話の現状だろうと思います。
 ファシリテーターは対話に積極的に介入し、議論を整理、統御するべきだ、という立場もありえるでしょう。しかし、私の個人的な考えでは、極力何もしない、というのがよいファシリテーターというか、ファシリテーターがあまり介入しなくても議論がスムーズに流れていっているときに、その哲学カフェは成功していると感じます。つまり、議論が盛り上がっているならばファシリテーターがその議論を統御しようとして何度も介入することは必要ないといえますし、反対に議論が盛り上がっていないために、ファシリテーターが盛り上げようとして何度も介入する哲学カフェも、あまり成功していないと感じてしまいます。(ただし、私がファシリテーターをする場合、ホワイトボードや黒板に議論の流れを板書し視覚化することによって、発言しなくても、参加者に今議論されているテーマや流れを共有できるようにしています) 
 今回のツイ哲では、ファシリテーター(私)が何度も介入してしまったことが、私のファシリテーター観からすればすでによくないことであり、さらにはその介入によっても議論は活性化しなかったわけです。たとえば、ラインBとCでは、私が質問する役となってなり、ほぼ一対一の形で議論が進行していましたが、他の複数の参加者からも多様な質問がなされるような工夫を、ルール設定や初期の段階を行うべきだったかもしれません。 

③議論の難しさ
 前回の記事でも指摘したことですが、今回のツイ哲は「他者の尊重」と、やや抽象的なテーマだったといえます。今回のツイ哲で示されたのは、こうしたテーマであっても、参加者の方の多くは自分なりの定義を述べることはできるし、それについての質疑も成立する、ということです。しかしながら同時に、それぞれのテーゼの意味合いを比較し、同一点と相違点を見いだし、自身の議論を根拠づける/相手の議論に反論する、ということは、なかなか難しいことなのだ、ということも示唆されたように思います。
 今回のツイ哲の前半~中盤では三つのラインが並行し、重なり合う内容の議論をしているにも関わらず、ほとんど交わらないという事態が発生したため、最後の二日は、私のほうから「統合する」ことを提案し、ラインEを作るということを試みました。こうすれば自然とお互いのそれまでの議論を踏まえて、自身の立場の正当性を主張したり、相手の立場の誤りを批判したりするということがなされるのではないかと期待していたのですが、実際にラインEでも、特段お互いのテーゼに関する質疑が活発となることはありませんでした。
 このことは、そもそも相互の議論が交錯しなかったのは、ラインが分かれていたことや、他のラインの議論を最初からきちんと把握することが労力を要するということ以外に、そもそも複数の立場を比較分析するということが、より抽象的な思考を必要とするため、難易度が高かったがためなのかもしれないことを示唆しているように思います。

④身体性の不現前 空間と時間の非共有
 当たり前の話ですが、ツイ哲の特徴は、従来の哲学カフェにおいては前提とされている「空間」の共有がなされないという点です。さらに今回は長時間行うことによって、これまでのツイ哲以上に、「時間」も共有されなくなりました。このことは、お互いの発言を吟味するための時間的な余裕を生みましたが、同時に、相手の顔や表情を隠すことにもなったように思います。
 このことは、相手が「誰」(性別、年齢、容姿)であるのかを不明にすることによって、公平な場を作るとともに、相手の「キャラクター」を把握することを困難なものにしました。このことと、文字数と発言回数の制限によって、ニュアンスを切り詰めて書かなければならなくなったことで、通常の哲学カフェであれば、相手の表情や話し方から伝わる情報が徹底的に遮断されていたといえます(特にこれは私のツイートに顕著だったかもしれません。反省しています)。
 また、これまでの二度のツイ哲では、空間は共有していないが、一定の時間は共有していることによる「チーム感」のようなものが徐々に醸成されてきた(と個人的には感じた)のに対して、そうした「チーム感」は希薄だったといえます(いくつかのラインを統合した最終日でさえ、個別の議論に留まったように感じます)。
 ただし、以上のような、哲学対話の時間を長時間化することによって、過去最多の参加者に恵まれた、ということは追記しておきたいと思います。

⑤文字として残ることの価値
 ツイ哲では、当然すべての発言が文字として残ることになります。これは、哲学カフェ・哲学対話としては、非常に稀有なことといえると思います。従来の哲学カフェ・哲学対話でも、黒板やホワイトボードに議論の流れを書いたり、あるいはメモをとったりすることによって、議論の流れを把握することがなされることはあったでしょう。また、意欲的なカフェでは、録画・録音をし、後で確認したり、文字起こしをしたりすることもあったかもしれません。しかし、そのようなすべての発言を文字化することは、頻繁になされることではなかったといえます。
 それに対して、ツイ哲では、すべての発言が残ります。勿論、その記録は、一般的な哲学カフェ・哲学対話とは異なったものでしょう。というのは、発話による対話では、しばしば噛んだり言い間違えたり、聞き逃したりを含んで対話が進行していきますが、今回のツイ哲では、発言回数に制限をかけたことで、考える時間や一度書いた内容を推敲する時間が豊富に取れたことで、初回、第二回目と比べて、よりそうした間違いは少なくなったように思えるためです。
 また、文字化によって議論を記録できることは、議論の質へも作用するといえます。従来の哲学カフェ・哲学対話では、以前の発言をすべて覚えて、それに言及したり、それを踏まえて新たな発言をしたりすることは難しかったといえますが、ツイ哲では、何度も読み返すことができることで、議論の理解を深め、結果として議論の正確性を高めるように作用することが期待できます。また、当初は気づかなかった細かな表現のニュアンスに、後から気付いたりすることもありました。さらに、後から振り返ることで、議論の「ずれ」がどのようにいつ生じたのかを把握することができ、以後の実践や研究に役立つ資料となるといえます。
 ただし、文字化はネガティブな側面も持っているといえます。ラインEに統合した後も、議論が盛り上がらなかった理由の一つは、文字として残っているために、それを読み、理解しなければ発言できない、という重圧が参加者にかかったことにもあるのではないか、と推察しています。このことが、議論自体も決して平易とはいえない内容であったことと合わせて、参加者の発言を抑圧したのではないかと思います。


2020年8月30日にアップ

2020年9月1日に修正のうえ、再アップ


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