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自分を写真に残す(遺す)という事。


桜の前、自撮りをする私。
桜の前、桜とともに写真を撮られる私。

桜の散る中、それらと共に私は必死に何かを残そう(遺そう)としている。


美しいものを見た時、写真に撮りたいと思ったのはいつの事だっただろうか。
幼い頃に山登りをして、父のカメラのレンズバッグを交代で持ち歩いていた頃から。いや、公園のブランコで落っこちて泣いてたあの頃から、いや、もっともっとカメラや写真というものはもっと自分の近くにあり、レンズは自分に向けられていたものだった。


初めてフィルムカメラの一眼レフで写真を撮った。以前住んでいた家の前の田んぼの景色、家の中、外で放し飼いしていた猫。ソファで横たわる体育着姿の姉…。それはとても新鮮だった。家の玄関の窓から差す夕日が綺麗とか。

上手く撮れるかどうかは別として、必死に今自分が美しい、良いと思う瞬間を切り取っていたのだった。


いつの間にかカメラの扱いが良いとのこと、そしてそれなりのデジカメを持っているということで、学校では記録係になっていた。それまでは父が私のことを必死に記録し続けてくれていたが、ある頃から私は誰かの記録を残す側になり、やがて記録の中にそんなに積極的に写らない人間になっていった。

写していることと、写されること、記録に残って行くこと、残していくこと、そのうち私の中に何か微妙なズレや違和感が生じていった。

昔々…ある世界では排除されることも多かったし、容姿や諸々…をまぁ虐めみたいなので、相当に批判されてたので。
(鏡で顔を見るのも怖くなってしまってた。)

だから、というのもおかしいが、その頃から私は手に入れたばかりの携帯電話で自分の写真を撮るようになる。景色が多かったフォルダから、自分の顔を写した写真が増えていった。

私の顔のどの辺りがどんな風に人を不快にさせるのか。とかもちゃんと考えみたりした。

結局、鏡に映る自分と写真に写る自分の顔が違うと思って衝撃を受け、本当に顔が見れなかったこともあった。


もう少し時が経って ある時、カンボジアにボランティアに行った時。そんなこんなで記録係になった私は、必死に写真を撮り続けていた。
皆がひたすら楽しそうに写真に写って、私は記録係だからか皆の分のそれぞれの携帯やデジタルカメラを次々と渡されて写真をひたすら撮り続けていた。私も普通に写りたい、記録に残りたいと心の中では思ってた。
それが言えなかったのだけれど。


ある村に行って、ひたすら記録写真を撮っていたら1人の女の子に出会った。その子は言葉はほぼ通じないけれど、ずっと私の近くにいて写真を撮る私を見ていた。

村を出る最後の最後まで、何か私の心の寂しい部分が見えちゃってるのかな?というくらいにずっと心配そうに私の側にいてくれた。

みんなが車に乗るまで一番後ろで写真を撮っていた私は、最後の最後に駆け寄って来た彼女とハグをした。
気持ちだけでさよならをした。

そしたら分からないけれど、その子からあったかいものを感じて、ふいに涙が出てきた。

こんな話をして、だから何だ。
と正直 突っ込みたくなる所もある。

だけど、何故だかカンボジアという国の小さな村で、気付いたのだ。

「私も私を残したい。」

そして「もっと自分を大事にしたい。」と。


自分が感じていた違和感。
しかしとてもシンプルだ。

自分が空気みたいに、時に透明人間のように、いない と感じてしまうのは結構辛くて、それは過去のトラウマがあったりなかったりなのだけれど。

だから必死に何かを残そうとしてた。
自分ではなく、周りのみんなの楽しい幸せの瞬間を。
でもそれだとどんどん心が寂しくなっていた。のかもしれない。(今はそういう思考はわりと克服したけれど当時はその点はとても病んでたと思う。)



自分を大事にしたいくせに、自分をちゃんと見つめられてなかった。コンプレックスだらけだった。だって、写真に写る自分が嫌いだった。

でも本当は見てみたかった。超写りたかった。こんなんじゃないよなっていう自分と、頭の中で想像する生まれてくる私の世界を。もっと表現したかった。

そして、私っているんだ。って事を自分自身で当たり前のように認めたかった。


それから、またその前とは違う感覚でカメラを自分に向けるようになってゆく。当時は自撮りしてSNSに載せているだけでもアイツ自撮りしてるよ〜みたいな、恥ずかしい感じだったのですが。

今って大分変わったね。なんだか嬉しいような寂しいような。でも、それもまぁあまり関係ないか。

そこから、色んな方に写真を撮ってもらったり、お仕事でモデルをしたり、自分でセルフタイマーで写真を撮り続けている。


それは素直にやってみるととても面白くて、その人との関係性でも、顔の表情も変わるし撮ってる人の感性でも勿論変わるし、色んな自分がいて面白かった。

そこに興味を持った。それもあってこのnoteのマガジンにもある「誰かのあの子」みたいなシリーズをやってみたりしてた。


自分で自分を撮るときは、とにかく正直でいたいって思って撮っている。そして今の自分がどんな自分なのか、見つめている。

(そして、結局ただの自撮り的な感じで最近はちょっとスランプであるのだけれど。)


でも昔より。自分に向き合って、素直になれてる気がするし、着実に自分を残していってる感があって嬉しい。



それはたった1つ、写真を撮るってことから始まってるのだけど。そんな超重い思いで撮らなくても…って感じかもしれないけど。

そんな気がしてるんだよね。


おこがましいかもだけど、そんな記録とかをいつかまとめて展示してみたいと思ってる。夢?目標?予定?
それは写真展なのか、木村仁美全体的な展示なのかは分かんないけど。人一人の生き方の記録って結構楽しいと思うんだよね。

アーティストなのか、なんなのかわからないけど。表現家みたいな事なのかな?


結局何をするにも自分の心に正直しかないのです。行動するのが前に増して遅くて本当に嫌になったりするけど、続けてる事がせめてもの才能かな。

そんなこんなで、自分が見てる自分、人が見てる自分の差を見て楽しんでます。そこで新しい自分を見つけて、また面白くなってもっと自分のことを知って、その繰り返しなのだけど。

一回しかないこの人生なんだから、考えてみるとこまで考えて、残せることを残してみたいなって。思ってます。
どちらかというと「遺す」って漢字に近いのかもしれない。

いつか地球が滅びた時にでもハラハラと自分の写真の断片とかが落っこちてたらな。なんてね。

全然面白くないか。


んー、でも、
ほんのちょっと 面白くない??

ふふ。

それでは、また会いましょう。



おわり

#写真 #エッセイ #記録 #モデル #セルフポートレート #残す #カメラ


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