仏教三部書

★『神道から観た仏教三部書』メモ

かつて『先代旧事本紀大成経』を読んだことがある。聖徳太子が実は仏教を重んじたのではなく、神道こそを主軸におき、仏教、儒教をも博く学びなさいという教えであり、「憲法本紀」は、『聖徳太子五憲法』と同様であり、その中の「通蒙憲法」が、日本書紀の十七条憲法であるということだった。

小笠原孝次氏著『神道から観た仏教三部書』を読むと、神道の立場から仏教の奥義が解釈され、小笠原孝次氏は、さながら現代に現れた聖徳太子なのではという思いにかられる。

●「第一次世界大戦までの時期は人類が科学と科学的産業を以て一応その日の糧を獲得しながら、自己修練の菩薩の行法にいそしんでいた時代であった。即ち科学が人類の菩薩行に従属していた時代であった。科学が哲学宗教の奴婢であった時代であった。然し第二次大戦後の今日はこの情勢が顛倒して、資本主義と共産主義の何れたるとを問はず、科学と産業がそれを掌握する独自の権力と結び付いてその科学的法則と形式を以て逆に菩薩である所の人類の生命の自覚と自由と自律を拘束しつつある。ここに無限の自由と自主とを欲して止まぬ人類生命すなはち人類大衆の苦悶と抵抗がある。資本主義に対する勤労無産階級の反抗は此の大いなる歴史的文化的な、人間の本性に則った抵抗の変型に他ならない。」

(法華経要義)
●「観普賢菩薩行法経はその作成の年代は後者よりも古いが、その内容は皇典古事記の抄本である。而して法華経二十八品は此の観普賢菩薩行法経、すなはち古事記の内容に至るための予備門であり、入門書である。Samantabhadraを意訳して普賢(編吉)と書くが、この「普く賢い」と云う意義をその名とする白衣の神人の実体実質の存する神聖なる場所を日本神道に於て「賢所」と云う。」

(歎異抄講話)
●「教行信証にも「ほかに賢善精進の相を現ずるを得ざれ、うちに虚仮をいだけばなり」とある。輪廻する業縁に没在し、みづからの計らひ努力を以てしては離脱する機のない世の中の憂さ衆生として、世の行末を見究はめる智見も、みづから何を為すべきかを定める智慧もなく、官能に追ひ使はれ、利害にあくせくし、他人の知識に引きずり廻はされて喘ぎ喘ぎ生きている我みづからの姿が虚仮である。このみづからの愚かさ、無力さ、くだらなさを知った時、そしてみづからの努力をもってしては遂にそれ以上の何者でも有り得ないことを知った時、その愚かな無力の自分が生きているには世のどん底、社会の片隅こそ応はしい場所だと知った時、その下座のどん底から初めて仏の色身、仏の世界の荘厳を仰ぐことができるのである。」

●「五劫思惟と浄土建設の大業を天津日嗣の歴史的な御経綸に置き換へた時、自分は神道の門に入り、御経綸の歴史的過程を理解することが出来た。「我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり」と教育勅語に述べられた限りなき皇恩は、小笠原に取っては小笠原一人のためである。…何故ならば、その宏恩に切実に感佩随喜し得る者は、この一人のわれみづからであるからである。前述した子供が云ふ様に「私のママ」であり、我が仏であり、我が神であり、まこと「我が皇祖皇宗」である。」

(無門関講話)
●「禅の悟りは仏教修行の出発である。ここを出発点α (アルファ)としてω (オメガ)である阿耨多羅三藐三菩提の内容を完遂することが仏道即神道である。 α (アイウエオ)は高御産巣日で先天の知慧、ω(ワイウヱヲ)は神産巣日で後天の知識、両者は容れ物と中味のようなものである。禅に於て斯うした本来の消息を会得する態度がそのまま神道布斗麻邇五十音の意義を会得する一端である。」

●「神道は人間はすべて初めから高天原の境涯に住んでいる者であることを前提としてその高天原の中実である布斗麻邇を説いている。然し末法の現代人に取ってはその神道の高天原の境涯に入ること自体が先決問題である。だが神道は高天原に入る道は直接教へることはなく、三千年来その指導を仏儒耶の三教(釈迦、老子、孔子、モーゼ、イエス)に委扽してある。その世界の教への中で最も合理的で適截簡潔に高天原の人となる道を説いたものの一つである禅宗無門関を本会が取り上げるのはこの為である。」

●「本来の自己を発見したならば摩尼は其処から滾々として湧き出て来る。これを天の真奈井の真清水と云ふ。摩尼の活用の前には釈迦の説法もキリストの垂訓も同格である。その摩尼の全体系を示してある教科書は古事記以外には存在しない。仏教もキリスト教も西洋哲学も自分が摩尼を活用するに至る過程に於ける練習法であり解説に過ぎない。布斗麻邇は主体として精神的に見る全宇宙であって、これを総持と云ふ。」

●「道(玄)の究極に到る階梯は必ずしも仏教の禅でなければならぬことはない。浄土の念仏も、キリスト教の瞑想、懺悔も、儒教の三省も乃至鎮魂帰神としての神道もすべて1つの道である。乃至必ずしもそうした欣求宗教宗派の修証を通らず自分独自の工夫を以てしてもよい。工夫は内面的ものであるから外部の形や宗派如何とは関係がない。どれでも自分の因縁に応じた道を辿ればよい。いづれにしてもそれを最後まで貫くことである。「終りまで忍ぶ者は救はるべし」と云はれる。救はれない考へ、救ひに到り得ない考へを悉く清算し、そして救はれたいと思ふ願望欲望を放擲する時救ひに至る。要は何かに獅噛み付いている手を撒せばよいのである。仏教以外の宗教を外道と云ふ事は当らない。ただ不完全な未踏のものを以て堕し得意となる事が外道であり、異安心である。他を外道と云ふ自分自身が外道である。」

●「「即心即仏」或は「非心非仏」、生命すなはち人間性が由って来る玄に到達したら、其処から人間性が如何に発現し、その人間性を如何に整理し、操作して文明を創造経営して行くかと云ふ事を完全に解決することが大乗(密乗)としての真の仏道であって、この道を「一切種智」「仏所護念」(一切諸仏所護念経) 「摩尼宝珠」と云ひ、その完成体を「無上正覚」と云ふのである。個人としての悟りに停滞することなく、寒山が歌ふ如く。「摩尼を采らんがために欣求す」云ふのが真の仏教徒の姿勢であって、その最高の解法は神道によってのみ初めて与へられる。すなはち無上正覚とは布斗麻邇三種の神器の把持運用を云ふのであって、その意義を咒示したのが法華経の奥義である観普賢菩薩行法経である。」

●「禅をはじめ世界のすべての宗教は此処までであって、拈華微笑の境域は人間の智性が到達し得る極限であって、宗教は此の山の頂上に登る向上の道である。その向上の極限に達した時、それから先に神道布斗麻邇の道がある、それはその頂上から人間の性能の原理である摩尼を道しるべにして、誤りない道を降って来て、地上の文明を創造し、世界を経綸する降り道であり、向下の道である。これを天孫降臨の道と云ふ。向上の道は世界の随所に開けている。だが向下の正道正法は神道三種の神器の道としてのみ存する。」

神道を学ぶ者は、仏教を当然の如く学んでいる必要がある。本書の監修者であり、小笠原孝次氏の継承者である七沢賢治氏は、神道と仏教、そして聖徳太子について、以下のように指摘している。

【先師は、予てより仏教の中に 言霊の前提となる教えがあり、それを学ぶことが言霊をこの手にしかと掴むために必須であると説いていた。そもそも、その入り口となる「中今」の把握とは、天地開闢の正に瞬間であり「永遠の今」を体認することをいう。それは、仏教の「空」や「悟り」と同質のものと考えてよい。

他の教義もそうであるが、まずは自己自身が囚われの世界から救われなくてはならない。そのための方法論が仏教にはあるということである。

実際、古神道や言霊の教えにそれはない。「神道は言挙げせず」であり、言霊学は元々、既に「それ」を掴んだ人間を相伝の対象としているからである。一般論的には不親切な話であるが、そのような事情であれば、手掛かりは他に見つけるしかない。その一つが仏教であり、なかでも『法華経』、『歎異抄』、『無門関』の三つに、最も端的にその中身が詰まっていると先師は考えた。それぞれに独自の解説を加えることにより、この仏教三部作は求道者向けに一応の完成を見たといえる。『古事記解義 言霊百神』が刊行される二年前のことであった。】

【仏教はアジアと日木の文化に多大な影響を与えた。日本が神話の国であることに違いはないが、奈良時代以降、政策的に仏教国を目指したこともあり、仏教を基にした芸術や教義が今もこの国に根付いているように見える。だから、馴染みのある仏教の説明知で言霊を理解してもらおうというのが先師の狙いであった。それは師に始まったことではない。古くは聖徳太子が日本に仏教を取り入れたのも、同じ理由であったように感じられる。太子は元々神道の原理を掴んでいた。つまり、神道を蔑ろにしたのではなく、当時の日本人が仏教を学ぶことで、かえって神道の理解も深まると考えていたふしがある。結果的にそれは以降の仏教文化を繁栄させることとなった。しかし、白法すなわち神道原理はそれにより隠没の道を辿る。

一見すると太子の意図は失敗に終わったかのように見える。なぜなら仏教の裏に日本神道の原理が働いているとは誰も知らず、ましてや今日、それを元に神道を学ぶなど思いもよらぬ事態にあるからである。けれども、穿った見方をすれば、そちらが実は本来の目的であった可能性もある。つまり、神道布斗麻邇の原理をある時代まで隠すのが元の狙いであり、然るべき時期に当初の意図を「誰か」に実現してもらおうと考えていたのではないか、ということである。当初の意図、それこそ天津日嗣の世界経綸であり、仏陀の入涅槃と出涅槃であると先師は語っている。が、その 「誰か」とは、ひょっとして師のことではなかったろうか。もっと言うとそれは、同じ意志を引き継ぐ我々日本語族の誰かといえる。】

★版元HP 神道から観た仏教三部書 法華経要義 歎異抄講話 無門関講和 – 小笠原孝次 監修 七沢賢治 | 和器出版 (wakishp.com)

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