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当たり前の押し付けで人を傷つける人間にならないために。

先日、実家の父親にPCの使い方のレクチャーをしていて驚いた。
「クリック」「Web」「URL」「ダウンロード」……。
自分がなんの違和感も疑いもなく使っている言葉が、まったく通用しない。
ひとつひとつの単語を説明するところから始め、結果うまく相手に理解してもらえずにレクチャーは頓挫し、お互い疲弊してしまった。

なんだか悲しい気持ちの中で、大好きなバンドのこの曲を思い出した。

"みんなが普通に使っている
その言葉の意味が分からない
ねぇオリジナリティって?
ねぇクリエイティブって?
分からないくせに使うなよ"

考えてみれば、ある誰かにとって当然の言葉や概念が、それ以外の人にとっては当然ではないことなんて腐るほどある。

そういうとき相手の無知を笑うのは簡単だが、自分が同じ立場になったときのことを想像すれば、それがどんなに悲しいことかは分かるだろう(AIや機械学習の知識を持っていることが当然の時代に急に放り込まれたとしたら、私はどんなに疎外感と焦りを覚えるだろう?)。

そういうとき、分かり合えないことに腹を立てるのではなく、分かってもらえるようにどう工夫すればいいのか?と考えられる人間になりたい。

PCレクチャーの件で言うならば、そもそも「Web」とはなんのか、「URL」とはなんなのか、知らない人にも分かるような易しい言葉で説明できるようにすればいいだけの話だ。そもそも、それができて始めてその言葉を理解できているということなのだ。

これは、突き詰めると固定観念の問題だと思う。
自分の当たり前が相手にも通じるという固定観念。
あるいは、世の中に自分とは全く違う常識や価値観、生き方をしている人がいるということへの想像力の欠如。

膨大な情報を入手でき、様々な人の意見に触れられるようになった現代では、その病はますます顕著になっていくだろう。

「知らないほうが悪い」
「誰もがこう言っている」
「これが今の主流なんだから」

そうやって切り捨てていった人の意見や感情は、どうやって救われるのか?
そもそも、知っていることの何が正しいのか?
主流に従うことの何が正しいのか?
その本質を私達は真剣に考えたことがあるのか?

時代は目まぐるしく変わっている。 その中で生きていくには、自分自身を更新していく必要がある。 それは眼前の厳しい現実だ。 だが、その更新の行き着く先は、主流以外の何かを切り捨ててしまうことではなく、当たり前の押し付けに疑問を投げかけ、時代の固定観念を壊して、誰にとってもより幸福な未来を模索していくことでありたい。

どんな時代でも、誰もが、幸福になる権利があるのだから。

(「次世代の教科書」編集部デスク 松田)

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