木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第17回 小説講座 『容疑者Xの献身』③

『容疑者Xの献身』において、最終的に解かれなければならないのは、石神の犯行の動機です。
    この際、トリックはどうでもいい。東野圭吾はこの小説を書くうえで、明らかにトリックを重視していません。
    石神はなぜこんなことをしたのか。これほどの頭脳の持ち主が、なぜこんなことをしなければならなかったのか。
    最終的にここに集約されます。
    石神の動機は一つではありません。大きく言うと、三つあります。

①靖子への献身
    石神は靖子に救ってもらった。だから彼女に恩返しをしたいと思う。
    石神は確かに彼女に恋をしています。ですが、天才数学者の恋心は、ちょっと普通じゃない。彼女と付き合いたい、結婚したい、あるいはセックスしたいという感情はほとんどありません。
    石神は過去にも女性を好きになったことはあったはずですが、おそらく告白もできないまま終わったのでしょう。人生で数学しかやってこなかった人間なので、女性とどう接していいか分からない。デートもセックスもやり方が分からない。会話さえままならない。
    過去に女性に恋心を抱いても、手も足も出せないまま、みじめな思いをして、彼から自信を奪っただけに終わった。
    石神には、男としての自信がまったくありません。自分は不完全な人間だという思いさえ抱いています。
    はじめから女性と恋愛関係になることを、もっといえば女性と関わること自体をあきらめています。
    その意味で、石神と靖子の関係は、鶴と人間の関係に近い。鶴は人間に恋をしても、結婚できないし、セックスもできない。恋心を抱いたり、関係を持つこと自体が、自然界の掟として許されない。
    だから石神の靖子への恋心は、性欲とは切り離された、純粋にイノセントなものです。まだ性欲というものを知らない、幼児のような恋です。好きという生の感情があるだけで、肉体関係にも社会関係にも発展しようがない。中年男性としては幼すぎるし、ピュアすぎます。
    もし石神のこの感情が「恋」と呼べるものなら、この小説のタイトルは『容疑者Xの恋』でもよかった。でも「恋」とは明らかにちがうので、東野圭吾はあえて「献身」という言葉で表現しています。
    確かに「献身」のほうがぴったりくる。ささいなことですが、こういうところにも作家の感覚の鋭さが表れています。

②自殺願望
    石神には自殺願望があって、実際、一度試みています。
    数学の研究者になる道はもう絶たれています。この世に未練はない。いつ死んだっていいと思っているので、行動にブレーキがかからない。
    ただ、靖子を守るというイノセントな目的のために、自分の命さえ差し出す気持ちになっています。

③理系人間の本能
    科学者や数学者、広い意味で理系の人間は、仮説を思いついたら実証してみたくなるものです。たとえ、それが倫理に反していたとしても。
    江戸時代後期の医師、華岡青洲は、外科手術の際に用いる独自の麻酔薬を開発していました。ただ、当時では人間に直接使ってみないと、その効果を実証できませんでした。協力を申し出た母と妻に、青洲はいわば人体実験を試みます。
    青洲もある程度、リスクを分かっていたはずです。その結果として、麻酔薬の効果は確かめられたものの、母はおそらく中毒で死亡し、妻は失明してしまいます。
    ですが、これは倫理的にどうというより、理系の人間の本能に近い。
    核爆発というものの仮説を立てたら、実験してみたくなるのが科学者というものです。それが結果として、無辜の民を虐殺することにつながるとしても。
    靖子はもう元夫を殺してしまっています。過去には戻れない。この死体を隠しただけでは彼女を守れない。容疑者として疑われて、警察から執拗な尋問を受けたら、それほど強い女性ではないため、あっさり自白してしまうだろう。
    だから彼女が疑われることさえない、嘘をついたり演技したりする必要さえない、完全無欠のアリバイトリックを考えなければならない。
    そのトリックを、石神は思いついてしまった。理論的には完璧である。絶対にうまくいくという自信もある。
    それなら、実験してみたくなるのが理系の人間の本能です。たとえ無関係な人間の命が奪われるとしても。

    湯川はその謎を解いたとき、石神という人間のすべてが分かります。
    靖子へのイノセントな恋心も、自殺したがっていることも、今でも彼の本質は数学者であることも。
    もし石神が大学に籍を置いて、思う存分、研究に打ち込むことができていたら、きっと輝かしい栄光が待っていたはずです。戦って負けたのではなく、戦う場所すら与えられなかった。数学者として人生をまっとうできなかった石神の悔しさが、湯川には手に取るように分かります。
    自分だって少し運が悪かったら、石神のような人生に転落していたっておかしくなかったのだとも思う。
    ただ、トリックが解けただけではなく、それによって石神の心のすべてが見えるということが大事なのです。
    湯川は葛藤します。
    この謎を解くべきかどうか。
    解かない、つまり戸を開けないということもできます。
    それなら石神の望み通り、完全犯罪が成立します。靖子は、石神が何をしたのか知らないまま、罪をまぬがれる。
    そうしてやりたいという気持ちもある。ここに理系男子の友情みたいなものも生まれています。石神が死にたいなら、死なせてやったほうがいいとも思う。石神にとってそのほうが楽なら。
    でも同時に、湯川は科学者でもあります。目の前に謎があるなら、解き明かそうとするのが科学者の本能です。たとえ石神を地獄に突き落とすとしても。
    最後は本能と本能の戦いになる。

    ミステリー小説とは、こうでなければならないという思いが僕にはあります。
    ただ事件が起きて、謎(ないしトリック)が解けて、犯人が分かって、犯行の動機を語って終わり。そんなものはミステリー小説とは呼べない。
    謎が解けたあと、何が見えるのか、何が起きるのか。それが大事です。そこに、ちゃんと呼吸している生身の人間がいなければいけない。
    既存の作家のなかで、そういう工夫を一番していると思えるのが東野圭吾です。
    映画を見たとき、第一感で「こんなものなら僕でも書けるな」と思ったのですが、実際に書いてみると、なかなか難しい。
    美しいものはたいていシンプルで、シンプルであるがゆえに簡単に真似できそうに見えるのですが、よくよく研究してみると、やたら難しい。これは秋元康の作詞にもいえることです。
    やたら難しいことを、いともたやすくシンプルにやってみせるのが、一流の芸というものなのでしょう。
    いつかそういうミステリー小説を書きたいと思っています。
    では、また次回。


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