木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第15回 小説講座 『容疑者Xの献身』①

    今回は、僕が他の作家の小説を読んで、参考にしているものを取りあげます。
    最初に取りあげる作品としては、これ以外に考えられません。東野圭吾の『容疑者Xの献身』です。
    僕が小説を書きはじめて、まだ間もないころです。
    僕はそれまでの読書遍歴で、ミステリー小説をほとんど読んでいませんでした。子供のころは歴史小説が好きで、中高になると日本文学全集をよく読んでいました。大学に入ってからはロシア文学や英米文学、あとは小説以外です。ミステリーに関しては、シャーロック・ホームズシリーズを数冊読んだくらいです。
    いや、他にも読んでいたと思いますが、がっかりさせられることが多くて、敬遠していました。ミステリー作家で多少なりとも読んでいたのは、京極夏彦くらいです。東野圭吾もよく知りませんでした。
『容疑者Xの献身』は最初、映画で見ました。たまたまテレビで放送されていたからです。すでに小説を書きはじめていたので、参考になればと思って見たのかもしれません。
    なるほど、ミステリーってこういうものなのかと思いました。産まれたてのヒヨコが、初めて見たものを親だと思い込むように、こういうのをミステリーっていうのだなと。
    そして次に思ったのは、こんなものなら僕でも書けるな、と。
    大げさにいえば、木元哉多という推理作家が生まれた瞬間です。
    すぐに原作を読みました。そしてミステリー小説を書きはじめました。実際に書いてみると、そう簡単にはいきません。デビューまでにそれ相応の時間はかかっています。
    ただ、その後、ミステリー小説を、たぶん五百冊以上読んでいるはずですが、僕のなかで『容疑者Xの献身』に勝る教科書は今のところありません。
    最初にこれを親だと思い込んでしまったということもありますが、それ以上にこの作品はよく構築されています。

    ミステリー小説は、ただの小説ではありません。
    物語と謎、この二つが二重構造になっているものが、ミステリー小説です。
    まず縦糸として、物語としての起承転結があります。恋愛小説なら、まず男女が出会い(起)、恋に落ち(承)、障害や挫折があって(転)、でも結ばれる(結)という流れがあります。
    もう一つ横糸として、ミステリーとしての起承転結があります。まず事件があり(起)、解決への努力をし(承)、妨害や困難があって(転)、でも解決する(結)という流れがあります。
    この縦糸と横糸が組み合わさって、一枚の布として構築されているものが理想的なミステリー小説といえます。
    物語は、謎とともに(それを吸引力として)進展していくのですが、この両者が違和感なく、そして分離不可能なくらい巧妙に、組み合わされているものが理想です。
    だが、それが技術的に難しい。
    だから多くの場合、一方を重視して、他方を軽視します。物語としてはおもしろいけど、ミステリーとしては弱い。あるいはミステリーとしてはおもしろいけど、物語としては弱い(人間が書けていない)。そのどちらかになりやすい。
    縦糸と横糸が、同じだけの強度を持って、バランスよく組み合わさっているミステリー小説はとても数が少ない。
『容疑者Xの献身』は、その数少ない成功例の一つだといえます。

    まず、おおざっぱにあらすじを。
    花岡靖子は、娘の美里と二人で暮らしている。そこに元夫が訪ねてくる。別れたあとも靖子に付きまとい、金をゆすったり、暴力をふるってくる悪質な男である。
    そこで争いになり、母娘はこの男を殺してしまう。
    アパートの隣に住んでいる数学教師の石神が、騒音を聞いてやってくる。隣人というだけで、これまで関係はなかったのだけど、なぜか石神は母娘を助けようとする。
    このあと石神は自分の部屋に死体を移動させ、アリバイトリックをしかけるのですが、その内容は母娘には教えられないし、読者にも教えられない。
    ミステリーとしては、はたして石神はどんなトリックを使ったのか、つまりHOWが謎になります。こういうのをハウダニットといいます。「How    done    it?」、変な英語ですけど、「どのようにそれをしたのか」という意味です。
    物語は、二つの謎とともに進展します。①石神はどのようなアリバイトリックをしかけたのか、②石神はなぜ母娘を助けようとするのか。
    ここまでは靖子視点で語られます。続いて、刑事(草薙)視点に移ります。
    まず、男の死体が見つかる。その顔はめちゃくちゃに破壊されている。被害者の所持品から、靖子の元夫だと分かる。殺害状況や動機の点から、靖子が第一容疑者として挙がるが、彼女とその娘には鉄壁のアリバイがあることが分かる。
    草薙は靖子が怪しいとにらむが、アリバイが崩れない。そこで友人である大学教授の湯川に相談する。偶然だが、湯川と石神は大学時代の友人だった。

    ミステリー的な趣向でいうと、顔が破壊された死体は、「顔のない死体」というトリック類例に当てはまるものなので、人のすりかえだとすぐに分かってしまいます。
    つまり、ここで発見された男の死体は、たぶん元夫ではないということは、ミステリーが好きな読者なら察しがついてしまう。
    そして事実、そうなのです。
    これは昔からさんざん使い古されたトリックなので、もしこのトリックが明かされて事件の謎が解けるだけなら、これはB級ミステリー小説にすぎない。
    しかし、東野圭吾の狙いはここにはありません。

    靖子と美里はアリバイがあるため、容疑者から外れる。だが、石神があの死体をどうしたのか、そして石神がなぜ自分たちを助けてくれるのかが分からない。この二つがずっと謎のまま進展します。
    このあと、靖子のもとに工藤という昔の知り合いの男が現れる。
    工藤は靖子に好意を持ち、靖子も工藤に好意を持つ。その直後、石神から手紙が届く。石神は二人がデートしているところを尾行していて、靖子を非難する。おまえたち母娘を助けてやったのに、別の男とデートするなんて、裏切りだと。
    ここで初めて、石神がストーカーで、自分たちを助けてくれたのは、靖子に偏執的な恋愛感情を持っていたからだと分かる。このことで自分たちを支配することが目的だった。靖子は一生、石神から逃れられないという恐怖を感じる。
    だが、実はこの手紙にも、トリックを成立させるためのある狙いが隠されていたことがあとで分かる。
(あとは自分で読んでください)

    一度、石神をストーカーだと思わせる。でも実は・・・。それが分かったとき、タイトルの「献身」の意味が浮かびあがる。
    この運びが、シンプルにうまい。東野圭吾は、石神をストーカーだと読者に思い込ませるための叙述を丁寧に踏んでいます。石神が靖子をだますように、東野圭吾も読者をだましている。
    AとみせかけてB。
    これはミステリーの基本技術なのですが、それが堂に入っていて巧みです。
    ですが、僕がこの小説から学ぶのは、むしろ物語の構築の仕方のほうです。
    では、また次回。

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