木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第29回 社会講座 エンタメと風刺④

    引き続き、『BAN』の話。
    ゲームをしているうちに大人になってしまった子供の話です。
    子供といっても精神年齢のことで、もしかしたら二十代、三十代かもしれない。
    まわりは大人になっていて、就職したり結婚したりしています。仕事や育児で忙しくしている。でも、自分だけ築きあげてきたものが何もない。気づいたら、まわりには誰もいないし、社会的に無視されている。
    彼はゲームをしているときは、何も考えていません。快感の連続で、興奮状態にあります。ゲームのなかでは彼は無敵であり、不老不死です。何万人も殺してきたから、「なんでもできる」と思っていた。
    でも、ふと気づく。
「あれ、なにやってんだ、俺」「えっ、俺、もう三十歳?」みたいなことです。
    カップ麺にお湯を注いで、三分待つつもりがボーッとしていたら十分くらい経っていて、麺が伸びていた。それくらい、彼の時間の感覚はおかしくなっています。
    三分を三分と感じられないのだから、一年を一年とも感じられない。十年を十年とも感じられない。自分は子供だと思っていたのに、気づいたら大人と呼ばれる年齢になっていた。
    完全にゲーム依存症になっていたら気づきません。彼はその一歩手前なので、まだギリギリ気づきます。
    今まで何をやっていたんだろう。時間はたくさんあったのに。でも、今さらゲームをやめろと言われても、やめられない。やめたところで、何をしたらいいか分からない。
    考えたら、恐ろしい話です。

    十代、二十代でするべきことは、失敗のデータを集めることです。
    仕事にしても恋愛にしても、十代、二十代では初めてやることが多い。当然、すぐにはできないし、たくさん失敗します。
    でも、そこから学んでいく。
    こうやったら失敗した。じゃあ、同じ失敗をしないためにどうしたらいいか。その試行錯誤のデータを集めていく。そうすることで知識が増え、思考の精度が上がり、技術が身につく。失敗体験と成功体験が基になって、自分の価値観や生き方なんかも決まってくる。
    失敗することにもそのうち慣れます。免疫がついて、タフになります。
    でも十代、二十代でそれをしないで、三十代になったら悲惨です。この能力的な差は、たぶん一生埋まらない。
    結局、世の中は有能な人と無能な人に分かれます。
    競争社会だから、それは仕方ない。
『BAN』の主人公は、自分がゲームをやっていた時間は全部無駄だったと気づいたとき、もういい年になっていて、今さらやりなおすこともできない。大人になるために必要な失敗のデータが集まっていない。
    もう大人なのに、精神的にも能力的にも子供のままです。このあとどうしたらいいのかを考える力さえ充分に持っていません。
    彼は無能ゆえに、競争社会からの「退場」を宣告されます。それを突きつけられた瞬間は、恐怖でしかない。
    彼は最終的に、
「神様    過ちを許してください    急にそんな宣告するなんて」
    という状態になります。でもそのあと、なんの救いも提示されない。
    なぜこんな恐ろしい歌詞がエンタメ(アイドルソング)として成立するのか、僕には不思議でしょうがない。
    普通、ここまできつい風刺性をふくんだら、エンタメになりません。物語の主人公に選ぶこともできない。物語の主人公は、どんな困難があっても、潜在的には乗り越えていく力がある場合にだけ主人公たりえます。
『BAN』にはそれもない。彼が社会復帰することは、薬物中毒の患者がその状態から回復することくらい難しいはずです。

    一般的に風刺の歌は暗くなりがちで、エンタメになりにくいため、最近はやる人がほとんどいません。たぶん売れないのでしょう。
    というか、それ以上にエンタメと風刺の両立が難しい。音楽の才能以上のものが求められるからです。
    この両立という点では、米津玄師がずば抜けて優れていると思う。
    たとえば『LOSER』という曲。
    タイトルの通り、「負け犬」の話なのだけど、ちゃんとエンタメとして成立しています。

    いつもどおりの通り独り(i)
    こんな日々もはや懲り懲り(i)
    もうどこにも行けやしないのに(i)
    夢見ておやすみ(i)
    いつでも僕らはこんな風に(i)
    ぼんくらな夜に飽き飽き(i)
    また踊り踊り出す明日に(i)
    出会うためにさよなら

    語尾が「i」で韻を踏んでいて、ラップの技法を取り入れています。そのため語尾がずっと単調に(同じ響きで)聴こえてくる。
    さらに「どおりの通り」「懲り懲り」「飽き飽き」「踊り踊り」と反復する言葉を多用しています。「いつもど(おり)」と「いつでも」、「僕ら」と「ぼんくら」、「こんな日々」と「こんな風に」など、似た語感の言葉がくりかえされてもいる。
    ここらへんは感覚だとも思うけど、ラップの技法と反復言葉、この二つの効果によって、代わり映えのしない毎日がくりかえされる日常の倦怠を表しています。
    金持ちなら旅行したりして、日常の風景を変えることができる。でも彼は貧乏なので、「どこにも行けやしない」。単調な毎日が延々とくりかえされるだけです。
    だからさっさと眠って「夢」でも見て、現実逃避するしかない。「おやすみ」と「さよなら」が対応していて、「夢」と「夜」と合わせて、闇を強く印象づける歌詞になっています。
    彼は搾取される側の「負け犬」なのでしょう。そういう生活のなかで心も膿んでいく。
    ちなみに「踊り踊り出す」という言葉は辞書には載っていません。でも、「おどろおどろしい」という言葉はあるので、日本語の語感としては成立します。なんとなく意味も伝わる。
    はまる言葉を探しても見つからなかったら、さらっと造ってしまう。言葉に対して融通無碍というか、ちょっと天才的なところがあります。
    米津玄師は、古典に対する教養がすごくあるのを感じさせるのと、この歌詞ひとつ取ってもディテールが緻密で、芸が細かい。
    先のラップ調にしても、無意味にかっこつけてやっているのではなく、冷静にある効果を狙っています。「なんのためにそれをするのか」の計算が働いていて、歌詞の密度を調整している。年齢的にはまだ若いと思うのだけど、芸に溺れないという意味で、老獪ささえ感じさせます。
    暗い世界の話なのに、絶望的な暗さではありません。百万ドルの夜景はないけれど、ろうそくの火くらいは灯っている。
    たぶん根っこにユーモア(あるいは遊び心)があるからだと思う。
    それから敗者、弱者を見る目が優しい。米津玄師は自分のアイデンティティーをそちら側に置いています。
    これはエンタメと風刺を両立させるうえでの鍵となるポイントかもしれない。

    アイムアルーザー    どうせだったら    遠吠えだっていいだろう
    もう一回もう一回行こうぜ僕らの声
    アイムアルーザー    ずっと前から聞こえてた
    いつかポケットに隠した声が

『BAN』の主人公はとにかく出口がなくて、ゲームをやめることさえできそうにない。最後は神にすがるしかありません。
    でも『LOSER』の主人公は、今は負け犬かもしれないけど、牙を持っているので(ポケットに隠し持っている)、いつかやりかえすかもしれないという希望があります。
    では、また次回。

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