木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第18回 小説講座 第1巻第3話 門井聡子編

『閻魔堂沙羅の推理奇譚』第1巻第3話の門井聡子編。
    この小説の着想は、テレビのドキュメンタリー番組です。
    東日本大震災で津波に襲われた町として、石巻市が取りあげられていました。
    震災前はどんな町だったのか。津波はどのように町を破壊したのか。震災から時間が経ち、現在はどんな状況かを淡々と伝えていく良質な番組でした。
    僕個人として、石巻市に行ったことはありません。ただ、その番組で、高台から太平洋を遠望する映像が印象に残りました。
    津波に襲われて行方不明になり、そのまま遺体が見つからないケースが少なくないといいます。
    逆に遺体は見つかったけど、これが誰なのか分からないというケースもままあるそうです。つまり家族が行方不明者届を出しておらず、遺体が身元の分かるものを身につけていなければ、名前さえ分からない。その場合は無縁仏として埋葬されます。
    たとえば『男はつらいよ』の寅次郎みたいな旅人がいたとします。
    たまたま石巻市に立ち寄り、宿屋に一泊して、津波に襲われて亡くなった。だが遺体が見つかっても、これが誰なのか分からない。寅次郎の家族だって、そのとき石巻市にいたことを知らないのだから、探しようがない。
    あれだけ広範囲に津波の被害がおよんだのだから、きっとそういう人もいたのだろうと思いました。
    たまたま石巻市に立ち寄り、住民登録もせず、いま石巻市にいることを誰にも伝えていない、まさに通りすがりの旅人です。津波に流されて死んでしまい、遺体が見つかっても、これが誰なのか分からない。
    そんな死に方をした彼は、いったいどんな人生を生きてきたのか。

    主人公はおばあさんです。
    第1巻の他の三話は、「成長小説」のかたちを取っているので、ジブリ作品と同じく、主人公は子供か、まだ大人として完成されていない未熟な若者です。
    でも、それだと同タイプの物語が並ぶことになり、シリーズとしてのバランスが悪い。引き出しの少ない作家だと思われてしまいかねません。それで変化をつけるため、一話は真逆の老人にしました。
    老人なので、もう「成長」はしません。むしろ「人生の締めくくり」みたいなものがテーマになってくる。
    おばあさんには一人息子がいます。しかし消息不明になっています。
    息子は津波で亡くなっているのですが、おばあさんはそのことを知らない。おばあさんは死ぬまえに、息子がどこにいて、何をやっているのか、その謎を解き明かさなければならない。
    でないと、人生を締めくくれない。

    第三話まで来て、このシリーズで僕がやりたいこと、あるいは立ち位置は、かなりはっきりしてきています。
    ひとことで言えば、ミステリー小説における物語性の回復です。
    既存のミステリー小説で、もっとも多い形式は次のようなものです。
    まず最初に、殺人事件が起きる。探偵(ないし刑事)が出てきて、事件現場を調べて、関係者に聞き込みをする。
    ここでA、B、C、Dの四人が容疑者として挙がるとする。このなかで一番疑わしいのはA。たとえば犯行現場からAが走り去る姿が目撃されている。しかも動機がある。でも、もっとも疑わしいAはたいてい犯人ではない。
    続いて、第二の殺人が起きる。現場検証、関係者への聞き込み。
    さらに第三の殺人が起きる。現場検証、関係者への聞き込み。
    ここで犯人はAではないと分かる。では、誰が犯人か。探偵が証拠をつかむか、犯人がボロを出すかして、謎が解ける。探偵が犯人を指摘し、犯人が動機を告白して終わる。
    犯人を悪者にしたくないなら、動機を復讐に設定すればいい。
    たとえば、息子がいじめで自殺した。母親はいじめっ子たちの将来を考えて、このときは沈黙する。だが、そのいじめっ子たちが大人になったあと、自殺した息子をあざ笑っているのを聞いてしまい、殺意がめばえる。母親は、息子を死に追いやったいじめっ子たちを次々と殺していく。
    最後、探偵が「天国にいる息子さんは復讐なんて望んでいない。お母さんが幸せになることを願っているはずです」と言って、母親が泣いて終わる。
    この形式で書かれたものが一番多い。同じパターンのものが、特にテレビドラマで山ほど量産されています。
    物語のテイストはどれも同じです。では、どこで差異化を図るかというと、トリックそのもの。つまり密室トリックやアリバイトリックなどに趣向をこらした芸で差異化を図るのが、いわば本格ミステリーという競技になる。
    トリックのスケールや、前例のない新奇性を競うわけです。「前代未聞、かつてない衝撃の密室トリック!」みたいなのが宣伝文句になります。

    それはそれでべつにいい。でも、僕はちがうことをしたいと思っていました。
『容疑者Xの献身』と同様、トリックはこの際、どうでもいい。「ちゃんと推理できる推理小説」というこだわりはあり、ミステリーのルールには忠実だけど、メインは人間ドラマでなければならない。
    では、人間ドラマとはなにか。
    ①主人公に感情移入させ、精神的に同化させるための描写。
    ②物語の起承転結の骨格作りと、それによって得られる結末のカタルシス。
    その両輪が力強く成立している物語だと僕は考えています。『閻魔堂沙羅の推理奇譚』シリーズでいえば、謎が解けて生き返ったあとのほうが大事になります。
    謎が解けるまえと解けたあとで、主人公にどのような変化が生じたのか。何を得て、何を失ったのか。読者がその変化にコミットできて、かつ、なんらかの感情を受け取れる物語でなければならない。

    寿命間近のおばあさんの話です。
    まず、彼女に「門井聡子」という名前を与えます。
    おばあさんは、何十年も前に消息不明になった息子の身を案じています。
    読者はこのおばあさんに感情移入して、精神的に同化しながら、彼女の謎解きを(一緒に推理しながら)見守る。そして謎が解けたとき、その真実が悲しいものであったとしても、「何も知らない」よりは「すべてを知って」死ぬほうがよかったと思える物語でなければならない。
    言いかえれば、「何も知らない」から「すべてを知る」という変化によって、彼女はやっと人生を締めくくれる。
    真実を知ることによって失ったものもあるし、得たものもあります。人生とは、えてしてそういうものです。でも彼女は知ろうとして必死に推理した。ただで教えてもらったのではなく、努力してたどり着いたのだから、彼女はそれを受けとめられるだろう。
    そして大往生で死ぬ。心臓が止まる最後の一秒まで人生であるように、最後の一行までおばあさんの物語を描ききる。
    最後は読者が「おばあさん、よかったね」と思いながら、彼女の死を見送れる物語でなければならない。
    この短編を書いているとき、僕の頭をずっと占めていた映画があります。山田洋次監督の『母と暮せば』です。
    数ある山田洋次作品のなかでも、これは上位に入る名作だと思う。
    では、また次回。

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