木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第20回 映画講座 『母と暮せば』②

    引き続き、『母と暮せば』の話です。
    この映画は、原爆投下後の長崎を舞台としています。
    作家、役者、映画監督。それぞれ立場はちがっても、曲がりなりにも表現者ならば、当然知っておかなければならない知識や教養があります。
    先人に敬意を払い、古典を勉強することもそうですが、なにより日本人なら忘れてはならない負の歴史がある。とりわけ広島と長崎に落とされた原爆と、それがもたらした災厄については、つねに考えておかなければならない。
    僕は戦争について書かれたものは、ジャンルを問わず、目についたものはなるべく見るようにしています。そういうことをちゃんと知っておくことが、作家としての姿勢を決めると思っているからです。
    人生ですから、勝つこともあるし、負けることもあります。僕の人生に関していえば、負けてばかりです。でも、たとえ負けても、作家としての姿勢だけはブレないものを持っていたい。
    吉永小百合もそうしてきたと思う。
    そういう役者だからこそ、こういう演技ができるのだと。
    そして映画のなかで、吉永小百合は、あの戦争は、あの原爆はなんだったのか、伸子という女性が見たもの、それに対する彼女の考えや思いを、演技を通してしっかり伝えていく。

    日本人にかぎらず、世界中が狂っていた時代です。狂気の時代であり、その行き着いた先が原子爆弾です。
    たった一発で、何十万人もの人間を一瞬で焼きつくす最終兵器。人間は恐ろしい生き物であり、恐ろしいものを作りだす生き物だということを、伸子はその目で見てきて知っています。
    でも、ともかく戦争は終わった。
    人類が狂気から覚め、理性を取り戻した。そして狂気の時代を振りかえり、戦争がもたらす数多くの悲惨な証拠を手にして、こんなことはもう二度と起こすまいと、戦争のない世の中を作ろうというコンセンサスができあがった。その仕組み作りがやっとはじまったところです。
    人間には狂気がある。その内なる狂気を二度と解き放たないために、パンドラの箱にしっかり閉じ込めておく必要がある。国際連合の枠組みに参加すること、平和憲法を定めること、そして核兵器がもたらす悲劇を世界中に知らしめること。平和への試みが少しずつ動きだした。
    それは人類の偉大な進歩だけれど、でも、あの戦争で失った二人の息子の命は返ってこない。あの戦争は、あの原爆はなんだったのか。誰のための、なんのための戦争だったのか。なぜ二人の息子は死ななければならなかったのか。
    伸子は自問自答を続けています。でも、答えは見つからない。
    ただ、二人の息子が自分より先に死んでしまったことが悲しい。母一人だけ生き残ってしまったことが苦しい。
    伸子は何も語らないのだけど、その悲しさと苦しさが、吉永小百合の演技によってじわりじわりとスクリーンに響いてくる。
    そして彼女の本音が、浩二との会話によって少しずつ引きだされていく。

「たとえば地震や津波は防ぎようがないから運命だけど、これは防げたことなの。人間が計画しておこなった大変な悲劇なの。運命じゃないのよ。そう思わない?」

    浩二に語りかける言葉に、伸子の本音がぽろっとこぼれ落ちる。

    伸子は助産婦の仕事をしています。これは物語の設定として正しい。脚本家のセンスを感じさせるところです。
    助産婦は、一つの命が産まれるのを助ける仕事です。それはちょうど、たった一発で大量の命を奪うことを目的とする原爆と対極に位置しています。
    出産と原爆、という対比がここにあります。
    一つの命が産まれる現場と、大量の命が奪われる現場。彼女はその両面を見ているということが大事です。
    彼女はその中間に立っています。
    奪われた二人の息子の命と、新しく産まれてくる命。

    本音をいえば、二人の息子を殺されて、悔しくないわけがない。
    彼女にも狂気はあります。
    彼女はそれを他人事とは思っていないし、自分を被害者だとも思っていません。自分だって、あるいは二人の息子だって、加害者側になることだってありえたのだと。
    日本は原爆を落とされて敗戦した国ですが、同時に、でたらめな戦争を起こして殺戮をくりかえした国でもあります。彼女はそれを知識として知っています。そこから目を背けているわけではない。
    でも本当は泣きわめいて、戦争を引き起こした連中を、二人の息子の命を奪った連中を、殺してやりたいし、罵ってやりたい。自分の中の狂気を、息子を奪われた悔しさを、まき散らかしてやりたい。
    でも、それをすれば、また争いが起きる。争いが、内なる狂気を呼び起こす。また、戦争がはじまる。狂気の時代に戻って、同じ悲劇がくりかえされる。
    若者が戦地に行くことになる。原爆が落ちて多くの人が死ぬことになる。それだけは絶対に避けなければならない。
    だから、彼女はけっして泣きわめいたりしない。おのれの狂気を呑み込んで、ぐっと耐えて沈黙する。
    きっと明るい未来は、町子のような心の清らかな女性や、上海のおじさんのようなへこたれない屈強な男たちが作っていくのだろう。そして自分が出産を助けた、子供たちがそのあとに続いていく。
    それなら自分は沈黙したまま、死んでいこう。
    セリフでは語らなくても、その沈黙が、彼女が自問自答してきたことへの答えになっています。また、彼女がその答えにたどり着くのを助けるために、浩二が「ナイト(騎士)」として寄りそっている。
    そして伸子は、平和への願いを次代に託して、疲れはてて死んでいく。

    伸子は、狂気の時代と戦った一人の女性です。それを吉永小百合が見事に演じきっています。
    吉永小百合の演技は、ひとことで言って、肝が据わっています。
    少ないセリフ、抑制された感情。なのに、伝えるべきことは、明瞭に伝わってくる。脚本と演出が、役者の能力をしっかり引きだしています。
    最近、やたら泣きわめいたりするような過剰演技、過剰演出が隆盛になっています。観る側に読解力がなくなっているから、そうなっているのかもしれません。
    でも本来、そう言わなくても、それが伝わるようにするのが演技であり、演出であり、描写ではないかと思います。足せば足すほど、説明過多になる。引くことによって生まれる余白と余韻で伝える技術もあるのだということを、この映画は教えてくれています。
    僕も吉永小百合くらいの年齢になったら、もうちょっと肝の据わった人間になって、肝の据わった物語が書けるようになっていたいと思います。
    そして僕が第1巻第3話、門井聡子編で書きたかったのは、文字通り、「肝の据わったおばあさん」です。
    では、また次回。


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