木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第36回 小説講座 第2巻第1話 武部建二編②

    冒頭で、武部はチンピラを懲らしめます。
    このチンピラは、民間人を脅迫して、嘘のアリバイ証言をさせています。それによって仲間を罪から救おうとしている。
    武部はそれを見抜いて、逆にそのチンピラを襲って脅迫し、アリバイ証言を撤回させます。そうして事件を解決に導くのですが、ここで武部がやっていることは違法捜査に他なりません。
    なぜ武部は違法捜査をするのか。
    作家は、必ずここをしっかり考えなければいけない。
    単純に考えれば、「郷に入っては郷に従え」。あるいは「 毒をもって毒を制す」。悪を叩きのめすには、きれいごとは言っていられないということになります。
    逆にいえば、武部には後悔している過去があるのかもしれない。
    たとえばストーカー被害にあっていた女性が警察に相談に来た。話の内容を聞いて、武部は危険を強く感じていた。
    だが、当時の法整備では、ストーカーを逮捕することはできなかった。結果、女性は殺されてしまう。
    過去にそういう後悔があって、武部は毒を飲む覚悟を決めたのかもしれない。
    もし長編なら、ここらへんのエピソードは書き込むところです。しかしこれは短編なので、紙面を費やしていられない。
    むしろ、ここは謎のままでいい。
    以前話した通り、主人公には謎が必要です。でも、その謎は必ずしも明かされる(説明される)必要はない。ただ、武部のセリフや行動原理のなかに、その謎に対する答えは暗示されていなければいけない。

    次に考えるべきは、武部の相方です。
    主人公を個性的に書くのではなく、主人公の個性が活かされる人間関係のおもしろさを書くのが僕の書き方です。
    いわば漫才師における相方探し。
    おたがいのキャラクターが相互に引き立つ関係性でなければいけない。
    対極に設定するのがセオリーです。
    ここに森野が登場します。
    武部が「武」の刑事だとしたら、森野は「文」の刑事。頭はいいけれど、気が弱くて、毒を飲むような度胸はない。あくまで法律と警察組織の範疇で仕事をする。武部のような鬼にはなれない。
    この森野が、武部とコンビを組まされる。
    森野は、武部が違法捜査していることを間近で見ています。
    現行の法律と制度では守りきれない被害者がいることは森野も分かっています。法の網から逃れてしまう悪を、武部は自分の判断で(法を逸脱してでも)叩き潰そうとする。森野は、武部のその執念に敬意を抱くとともに、恐れてもいる。
    対して武部は、刑事として気骨に欠ける森野を下に見ている。
    とはいえ、無能というわけでもない。まじめで頭の回転は速い。戦場では役に立たないが、兵站ならそつなくこなすだろう。もちろん警察組織にはそういう人材も必要である。武部なりに森野を買っていて、自分とは異なるタイプの刑事として育てていくつもりでいる。
    二人は異質であり、おたがいにアンビバレンツな感情を抱いている。当然、その関係性には緊張感がともなう。
    こういう二人がいるところに、どんなことが起きるか。
    事件は、二人の関係性を根底から揺り動かすものとして起こってこなければならない。

    オチを言ってしまうと、犯人は森野です。
    この小説のミステリーとしての難点は、犯人を推定できてしまうことです。犯人が何をしたのかは分からなくても、犯人は森野だろうということはだいたい分かってしまう。
    登場人物は、武部の他に二人だけ。森野と、上司の須崎です。
    ただ、須崎は登場シーンも少なく、いなくても物語は成立する脇役です。
    どう考えても森野があやしい。というか、森野以外に疑う人間がいない。推理小説としてはそこがどうしても弱いのですが、僕個人としてはどうでもいいと思っています。
    推理小説は、謎、つまり犯人は誰で、なぜどうやって殺したのか(WHO、WHY、HOW)といった謎をまず設定する。そして、それが解かれたときに、なるほど、そういうことだったのかという驚きと納得があって、それをカタルシスとする小説のことです。
    でも、僕がやりたいのは物語としてのカタルシスです。
    もっと正確にいえば、推理小説としてのカタルシスと、物語としてのカタルシスが複合的に成立する小説を書くことです。
    カタルシスとは、ギリシャ語で「浄化」を意味します。
    主人公の武部は、物語のなかで困難な状況におちいります。まず、謎を解かないといけない。謎が解けたとき、推理小説としてのカタルシスが生まれる。
    でも、それで終わりではない。
    武部は生き返ったあと、森野と対話する。武部の森野に対する感情は、ひとことでは言い表すことができないものです。
「してやられた」という思いもある。情報は出そろっていたのに、刺されるまで謎を解けていなかった。もっと早く真相に気づけていたら、森野の暴走を止めることもできたのに。
    森野への同情もある。今のところ謎を解けているのは自分だけだから、気づかぬフリをして森野を見逃してやることもできる。
    でも、武部にはそれはできない。
    武部も違法捜査はする。でも、彼なりに一線は引いている。
    証拠がないのに捏造するのはダメだし、殴って自白させるのもダメ。ただ、違法な方法によって証拠を暴きだすのはいい。
    冒頭のシーンで、違法捜査はしても、その一線は超えていないことが明瞭に示されています。それがいわば武部の矜持であり、毒を飲むと決めたとき、自身に課したルールでもある。
    でも、森野のやったことは一線を超えている。だから武部は森野を許すことができない。自分の矜持に反することになるからです。
    武部のその矜持が、最後、森野に向かって言う「毒と薬」の話によって示されることで、読者は初めて武部という人間の本質を知ることになる。と同時に、最初に設定された謎、なぜ彼は違法捜査をするのか、という問いに対する間接的な答えにもなっています。
    武部の最後の長ゼリフに、そこまでのことがぴたっと表象されたとき、読者の心は氷解して、カタルシスが生まれる。
    カタルシスとは、感情の浄化を指します。
    小説のなかで設定された二つの謎、①なぜ違法捜査をするのか、②犯人は誰か、が解けたとき、複合的なカタルシスが生まれる。
    なぜカタルシスが生まれるのかといえば、武部という人間の、すなわち読者が感情移入している主人公の本質が分かるからです。
    つまり人間理解が一つ深まるから。
    それこそが小説の作用だと思っています。
    同時に、それこそが僕の書きたい推理小説であり、また、小説でなければできないことだとも思っています。
    では、また次回。


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