木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第6回 文章講座 秋元康①
小説を書きはじめたとき、最初の課題は、どうすれば多くの人に読んでもらえるか、ということでした。
小説の難点は、読むのに負荷がかかるという点です。
漫画や映画など、絵や映像のあるメディアのほうが、見る人の負担は少ない。小説は、読者にある程度以上の国語力と集中力、そして忍耐を求めます。
読者の幅を広げるには、そのハードルを下げればいい。そのためには読みやすい文章を書くしかない。僕自身、読みにくい文章で書かれた小説は読みたくない。
では、読みやすい文章とはなにか。
読んでいて、負荷の少ない文章。すらすら読めて、忍耐を必要としない文章とはどういうものか。
何を書くか、より、どう書くか。内容以上に文体が大事だということです。
参考にしたのは三つあります。
第一に、僕は昔から歴史小説が好きで、司馬遼太郎を小学生のときに読みはじめて、高校生になったころには主要作品は読み終えていました。小学生の僕でも、司馬遼太郎はすらすら読めた記憶があります。知らない漢字には丸をつけて、辞書を引きながら読んでいました。
でも同時期に松本清張を読んで、ぜんぜん読めなかった記憶があります。小学生の僕には難しかったのだと思います。
ここで問題です。
小学生の僕は、なぜ司馬遼太郎は読めたのに、松本清張は読めなかったのか。前者にあって後者にないものはなにか。
第二に、高校生のとき、村上春樹を読みはじめて、大学に入ったころには主要作品は読み終えていました。村上春樹はすらすら読めた記憶があります。
でも同時期に、三島由紀夫はまったく読めませんでした。
ふたたび問題です。
高校生の僕は、なぜ村上春樹は読めたのに、三島由紀夫は読めなかったのか。前者にあって後者にないものはなにか。
この二つは、いずれどこかで話します。
第三に、秋元康。今回は秋元康の歌詞について話します。
秋元康に関しては、僕は一つ驚いたことがあります。
公園を散歩していたとき、三、四歳の(幼稚園に入るまえくらいの)女の子が一人いました。他にも多くの子供が遊んでいたのですが、その輪には入らず、彼女は木の根元にしゃがみこんで、枝を使って地面に穴を掘っている。AKB48の『365日の紙飛行機』という曲を歌いながら。
これはちょっと驚きです。
NHKの朝ドラの主題歌だったので、親が毎朝、そのドラマを見ていて、「門前の小僧、習わぬ経を読む」的に耳で覚えたのかもしれないとは思いました。ただ、その子はなんとなくではなく、ちゃんと意味を理解して歌っている感じでした。
歌詞を書いてみます。
人生は紙飛行機 願い乗せて 飛んでいくよ
風の中を力の限り ただ進むだけ
その距離を競うより どう飛んだか どこを飛んだのか
それが一番大切なんだ さあ 心のままに 365日
たとえば「咲いた 咲いた チューリップの花が」とか、「象さん 象さん お鼻が長いのね」とか、「海は広いな 大きいな」というような、文法的にいえばSVやSVCといった単純な文章なら、歌えてもおかしくありません。あるいは『アンパンマン』の歌くらいなら歌えるかもしれない。
しかし『365日の紙飛行機』はそんな簡単な文章ではありません。子供向けの歌詞ではなく、大人向けのものです。それを三、四歳の子供が意味を理解して口ずさむというのは、衝撃的です。
女の子が、この年齢にして国語力が高いのだろうとは思いました。だから友だちがいないのかもしれない。同年代の子とは学力がちがうから、その輪に入れなくて、公園の隅っこで地面でも掘っているしかないのかもしれない。
そういう子供の特徴は、一人遊びが得意ということです。僕もそういうタイプの子供だったので、気持ちは分からないではありません。
でもやはり、秋元康の歌詞にも、なにか秘密がある。
ここで問題です。
なぜその女の子は『365日の紙飛行機』を口ずさめたのか。
秋元康の歌詞が読みやすく、口ずさみやすいのは誰が見ても明らかです。ただ、文法的には必ずしも単純ではなく、大人向けの歌詞なのに、なぜか子供が聞いてもすっと理解できる。
それはなぜなのか。
ひとことで言えば、映像を喚起しやすい文章だからだと思います。絵が浮かぶので、絵本や漫画を読んでいるような感覚になる。読み手の想像力をくすぐることで、イメージを引きだしているとも言えます。
では、どういう工夫をすれば、映像を喚起しやすい文章になるのか。
平易な言葉を使って、文法的に単純な文章を書けば、読みやすくなるというのは素人考えです。それだと読みやすくても、味わいのない文章になってしまう。
プロなら、平易でない言葉を使って、文法的に複雑にしても、読みやすい文章にしなければならない。
その工夫の一つは、言葉のチョイスにあると思っています。
単純化していうと、
①動きのある言葉、②色彩のある言葉、③音や匂いや味、触れた感触など、五感を強く刺激する言葉、④人との距離感を表す言葉は残す。
逆に、⑤平板に感じられる言葉は削る。⑥常套句は外して、別の言い方にする。
例をあげましょう。AKB48の『センチメンタルトレイン』という曲です。
田園地帯走る 銀色の電車が スピード落としたら 近づく駅
今日も君は乗ってくるだろうか グレーの制服で
ポニーテールの日は テストがあるんだよね 気合い入れるんだって 噂で聞いた
少し離れ 僕は そっとエールを送った
それは恋と呼べるような確かなものじゃなく 初めての 自分でも戸惑っている感情だ
これだけでも特徴が出ています。
「スピード落としたら 近づく駅」は動きのある言葉で、川端康成の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」を連想させます。「電車が駅に近づく」とは書かず、「電車が減速したら、駅が近づいてくる」と書くところがセンスです。
「ポニーテール」も動きのある言葉(馬の尻尾のように上下に動くので)。「銀色の電車」「グレーの制服」は色彩のある言葉、「田園地帯」も色彩の強い言葉です。「エール」は音感のある言葉。「噂で聞いた」「少し離れ」は女の子との距離感を表しているし、「そっと」には触れるような感触がある。
主人公の男の子は、この女の子のことが好きなのだけど、「好き」と言ってしまうと常套句になるので、「恋と呼べるような確かなものじゃなく」と、かわした表現にしています。常套句の外し方がうまい。
これは歌詞なので、曲のリズムが最初からあります。そのかわり文字数に制限があるので、はまる言葉を巧みにチョイスしなければならない。
どの言葉を残して、どの言葉を削るか。そこに秋元康なりの計算がしっかり働いています。おそらく映像を喚起しない平板に感じられる言葉は、この段階で削り落とされているはずです。
その意味で、秋元康の歌詞の書き方は、直感的なものではなく、ロジカルに緻密にアプローチしているという印象を受けます。インスピレーションあふれる作詞家ではなく、推敲がうまいのだと思う。
これを細かく細かくやっていくと、絵が浮かぶ文章になります。同じことは米津玄師の『パプリカ』にもいえます。
ただ、秋元康のすごいところは、これだけではありません。
では、また次回。
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