木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第37回 小説講座 第2巻第2話 池谷修編①

『閻魔堂沙羅の推理奇譚    負け犬たちの密室』第2話の池谷修編。
    着想は、第1巻を読み終えたときの担当編集者からの指摘でした。
    すべてがいい話におさまりすぎている。
    結果的にメフィスト賞を取ったのですが、読んだ編集者全員が賛同したわけではなく、そういう批判もあったという話でした。
    ある意味、当然の感想です。
    このシリーズのフォーマットは「成長小説」であり、主人公は最後に成長して終わります。クライマックスで主人公の成長ぶりが見えて、その変化の一歩目が示されたところで、ハッピーエンドに終わる。
    主人公は、欠点のある若者です。
    今、その欠点のせいで苦しんでいる。そこから抜けだすには、自分で課題を見つけ、試練を乗り越えなければならない。立ちはだかる敵に打ち勝たなければならない。できなかったことができるようにならなければならない。
    それをやり遂げたとき、欠点は克服され、若者は成長する。苦難のあとにカタルシスが生まれ、その読後感のよさで物語は閉じる。
    児童文学や漫画など、多くの物語はこういう形式を採っています。
    もっともメジャーで普遍的な物語の型といっていい。その主人公に与えられる試練を、このシリーズでは「推理して謎を解く」というかたちに置き換えているだけです。
    だからこれは批判というより、難癖に近い。
    アイスクリームは甘いといって非難するようなもので、それは単にその人が甘いものが嫌いなだけです。だったらアイスクリームを食べなければいい。自分が嫌いなものを否定するのは、批判ではなく難癖です。
    だから耳を傾ける必要はないけれど、まあ、いちおう言われたことには取り組もうという考え方でした。
    テーマは、いい話としてまとめないこと。
    そのためには「成長小説」というフォーマットをいったん外す。そのかわり、別の形式をあてはめないといけない。
    このシリーズで、ラストがいい話に終わらないようにする。
    アイデアとしては、パッと思いつくところで二つありました。
    ①主人公が、謎を解けずに地獄に落ちる。
    ②謎を解いて生還したけど、ハッピーエンドに終わらない。

    いい話にまとめない。
    そこからの連想で、最初に思い浮かんだのは桐野夏生の小説『OUT』。
    そして「全員悪人」がキャッチコピーだった北野武の映画『アウトレイジ』。
    どっちもおおまかにくくれば、悪人同士が殺しあう話です。
    通常、物語に正義と悪が出てきた場合、基本的には正義が勝ちます。正義が勝たないとおさまりが悪いからです。
    最後に正義が勝つ物語は、勧善懲悪ものとして分類されます。
    池井戸潤の小説『半沢直樹』シリーズがその代表格です。たとえば零細の町工場で油まみれになって働く労働者を正義としたら、銀行は悪として設定されます。銀行の営利主義に、町工場の熟練職工が苦しめられている。あるいは、いじめられている。そこに、銀行をやっつける正義のヒーロー、半沢直樹が現れる。
    営利の追求自体が悪ではないのですが、少ない賃金で身を粉にしながら働いている労働者を正義とするなら、銀行は悪になります。銀行のほうが圧倒的な強者ですから、強いほうが悪です。バブル崩壊のあと、銀行がどれだけあくどかったかは万人が見ているので、そう決めつけたとしても違和感はない。
    ヒーローは弱者の味方でなければいけない。
    水戸黄門も同じです。悪代官がいて、苦しめられている庶民がいる。そこに水戸黄門一行が現れて・・・。
    分かりやすい勧善懲悪の世界で、悪が懲らしめられたとき、爽快感があります。でも毎度おなじみの結末なので、オチは予想しやすい。半沢直樹の場合は「倍返し」だし、水戸黄門の場合は「印籠」です。
    最終的にオチはそうなる。どんな物語にも一長一短あるけれど、いい話としてまとまってしまいやすい。
    しかし物語に登場するのが、全員悪人だとしたら。
    悪人しか出てこないなら、悪対悪の構図で、どっちが勝ってもいい。共倒れでもかまわない。つまり結末を予想しにくい。
    悪人同士が殺しあうだけなので、かわいそうじゃない。残酷な殺され方をしても、心を痛めないで済む。
    勧善懲悪の逆で、強い者が勝つという弱肉強食の世界です。ただ、勝てば官軍なので、勝ったほうが正義を名乗ることができる。

    こういうことをつらつらと考えていくのが推理作家の思考です。
    三日くらい考えていると、脳の中で構想が固まってきます。パンみたいに発酵してふくらんで、物語のかたちが見えてくる。
    登場人物は全員悪人、そして悪人同士が殺しあう。強い者が勝つ。勝った者が正義を名乗る。そういう物語にする。
    冒頭のシーンは、いつもパッと浮かびます。
    ゆすりのシーンです。
    例によって、ここは物語の本筋とは関係ありません。主人公の名前、性別、年齢、職業といった基本情報を伝え、おおよそどういう人物かを読者に印象づけることで、物語の世界に引き込むことを目的としています。
    なんとなく頭にあったのは、古いテレビドラマの『傷だらけの天使』。
    オサム(萩原健一)とアキラ(水谷豊)のコンビが主役です。二人は表向き探偵社に所属しているのですが、こういうゆすりみたいなことをよくやっていました。
    そこで主人公の名前は、そのまま池谷オサムとする。相方は阿賀里。
    池谷と阿賀里はコンビを組んで、ゆすり屋をやっています。
    年齢は三十歳くらい。『傷だらけの天使』のオサムとアキラが、ビルの屋上のプレハブ小屋みたいなところに住んでいたように、なかよく一緒に暮らしている。
    この二人がどこで出会って、なぜ同じ部屋に住み、ゆすり屋をはじめることになったのか、僕は想像します。
    池谷は暴力をふるうタイプではない。むしろ血を見るような喧嘩は嫌い。というのも肉体的に貧弱で、運動神経が悪く、戦っても勝てないからです。
    彼の戦い方は、真っ向勝負ではなく、姑息な手段で相手を出し抜くことに主眼が置かれている。ずる賢い知能犯。不健康で、虚弱体質であり、薬を常時服用している。
    阿賀里はその対極に設定されます。知恵も知識もないけれど、健康体で、鍛えているわけでもないのに肉体的に強靭。
    阿賀里は、そのころテレビでよく見たANZEN漫才のみやぞんの口調を真似しています。
    では、また次回。

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