木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第39回 映画講座 『万引き家族』①

    以前、韓国映画『パラサイト    半地下の家族』を取りあげました。
    同様に貧困をテーマにしたものとして、日本映画の『万引き家族』を取りあげます。
    日本と韓国、お国柄は似ているところもあり、正反対のところもありますが、貧困について語るとき、家族というものが並列して出てくるところがアジア的と言えるかもしれません。
    この『万引き家族』は、貧乏なので万引きをして生活費を浮かせています。
    祖母、父、母、母の妹、息子の五人で暮らしています。『半地下の家族』と異なるのは、核家族ではなく、今の日本では珍しくなってきている三世代家族という点です。
    物語の起点は、誘拐です。
    夜、歩いていたら、虐待されている未就学の女の子と出会う。
    冬なのに、薄着でベランダに追いだされています。体罰を受けていて、体はアザだらけ。かわいそうに思い、家に連れて帰って、家族の一員として育てます。
    誘拐されてきた女の子は、自分を虐待する親から離れて、この家族の末っ子としてすんなり受け入れられます。彼女には兄ができ、姉ができ、両親ができて、祖母ができる。まったく違和感なく家族の一員になります。

    祖母・初枝(樹木希林)
    父・治(リリー・フランキー)
    母・信代(安藤サクラ)
    母の妹・亜紀(松岡茉優)
    兄・祥太(城桧史)
    妹・りん(佐々木みゆ)

    物語の前半は、この家族の比較的いい面が語られます。
    今の日本では失われつつある三世代家族の生活が描かれる。みんなでテーブルを囲んで、ごはんを食べる。貧乏なので万引きをするのですが、それも家族で協力してやる。
    にぎやかで、よくしゃべり、よく笑います。喧嘩もするけど、すぐに仲直りする。みんなで海水浴に出かけたりもする。
    昭和の、特に高度成長以前の日本人の標準的な生活がそこにあります。
    だから誘拐されてきた女の子はすんなりこの家族に入れます。彼女にも日本人のDNAが流れているので、初めての環境なのですが、特に抵抗もなく、もともといたみたいな顔をして家族の一員になっています。
    これは別論ですが、今の日本人のライフスタイルは、本来の日本人のDNAに合っていないという言い方もできます。
    経済的には豊かになったのに、なぜ幸せを感じないのか、という問いに対する分かりやすい答えかもしれない。
    生活は貧乏そのものです。
    服は汚いし、あばら家みたいな平家に住んでいます。畳の居間が一つあるだけ。テレビは一台。彼らは『半地下の家族』とちがって、スマホを持っていません。
    高度成長以前の日本人の生活が強く印象づけられています。
    この家に個室はありません。寝るときは居間に雑魚寝です。ただし、祥太だけ押し入れのなかで寝ていて、ここが唯一のプライベート空間になっています。
    これが実は、この物語において重要な要素だったりします。ここに映画の作り手のセンスが凝縮されています。
    祥太だけプライベート空間を持っている。そして外界を遮断した押し入れのなかで、彼の個(自我)がゆっくりと育ちつつある。

    父は日雇いの建築労働、母はクリーニングのパート、祖母には少しの年金があり、それでどうにか暮らしています。亜紀は風俗店で働いていて、祥太は学校に行っていない。
    そもそもなぜ母の妹の亜紀が同居しているのかという点もふくめて、この家族にはおかしなところが多々あります。
    特に祖母は、いわくありげです。
    ここらへんは樹木希林の演技のうまさだと思うけど、しつこくつきまとってくるような怪しさがあります。
    どんな人物にも過去はあります。
    小説なら数ページを費やして、その人の過去を語ることができる。でも映画の場合、情報量(時間)が限られるので、いちいち説明していられません。だから人物の過去は、あえて説明しないで、演技のなかでさりげなく暗示するというかたちを取ります。
『半地下の家族』の貧乏・父のギテクもそうですが、その人物の過去をあえて説明しないで、演技のなかで、どんな人生を生きてきたのかをさりげなく匂わせる。
    それができる役者が、要するに、うまい役者です。
    万引き家族が海水浴に出かけるシーンがあります。
    樹木希林は一人で砂浜に座っている。自分の足を見て、「すごいシミ」と言って、そのシミだらけの足に砂をかける。
    ただ、それだけのシーンなのですが、やたら印象に残ります。
    たぶんこの人にはなにか消したい過去があるのだろうけど、砂をかけたってそれは消えない。ただ見えなくなるだけです。
    後悔とか、人生の消せないシミ。
    そういう過去を背負っている人なんだなってことがなんとなく伝わります。
「カメラをぐっと自分に引きつける演技」とでも言ったらいいでしょうか。物語の本筋とはまったく関係ない(なくてもいい)シーンなのに、強い印象を残す。
    絵になる役者というのは、そういうことなんだと思う。こういうのってアドリブのような気もするのですが、どうなんでしょう。

    この家族は、全体として謎めいています。
    一人一人は善良なのに、万引きや誘拐を平気でやります。このあと死体遺棄もやる。罪を犯すことについて、特に抵抗がありません。
    やむをえないからやるという感じで、日常的にやっています。
    それはなぜなのか。
    また、祥太が父のことを「おじさん」と呼んだり、亜紀が姉のことを「信代さん」と呼んだりすることもふくめて、家族自体にも謎がある。
    これは意図的に設定されている謎で、当然、最後には解かれなければならない。
    是枝裕和監督の作品は、僕は通して観ているのですが、ある時期からミステリーの技法を取り入れるようになっています。
    しかし「犯人は誰?」といった謎ではなく、あくまでもミステリーの技法を、すなわち謎を設定して、その謎を吸引力として物語を進めていく技法を、ストーリーテリングに取り込んでいるだけです。
    あくまでも(小説でいったら)純文学です。ただ、ミステリーの技法を取り入れることで、エンタメとの両立を図ろうとしているのだと思う。映画が興行である以上、ここらへんは避けられないところなのでしょう。
    では、また次回。

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