木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第38回 小説講座 第2巻第2話 池谷修編②

    池谷は悪人です。でも、生まれたときから悪人だったわけではない。
    僕は小説を書くとき、前作のイメージを引きずることが多い。
    前話の武部建二が、法が裁けない悪を叩き潰すために毒を飲んだのに対して、池谷は自分が生き残るために毒を飲まざるをえなかった、という対比があります。
    池谷は物語の主人公です。
    悪人だとしても、読者が感情移入できる存在でなければいけない。
    池谷が毒を飲んで悪人になるまで、いったい何があったのか。そして阿賀里と出会ったことで、池谷の何がどう変質したのか。
    それが物語の起点になります。

    ここに池谷と阿賀里がいる。
    二人は結託して、ゆすり屋をはじめた。さまざまな苦労を経て、その事業自体は成功し、ある程度のお金を貯め込んでいる。
    当初は、おたがいに必要な存在だった。
    池谷は悪知恵を働かせて高度な犯行計画を立てられるが、それを実行するのに必要な運動能力を持ちあわせていない。
    逆に阿賀里にはなんの知恵もないが、指示を出してくれさえすれば、忠実に実行できるだけの運動能力がある。
    おたがいの欠点を補完しあいながら、二人は犯罪を続けた。友情のようなものも芽生えた。お金も貯まった。
    でも、悪人である。欲に目がくらむ。池谷は山分けするのがいやになった。
    このパターンはミステリーではよくあります。
    たとえば誘拐事件を起こして、犯人グループが身代金を奪う。でも山分けするのがいやになり、仲間割れする。正義が悪を倒すというより、悪人同士が自滅するパターンです。
    池谷は阿賀里を殺して、金を奪うことを考えている。でも肉体的に強い阿賀里には、暴力では勝てない。そこで悪知恵を働かせる。一方で、阿賀里も同様に・・・。
    と、オチを言ってしまうと、ミイラ取りがミイラになる話です。

    気をつけたことが一つ。
    この物語には五人の登場人物がいます。
    池谷、阿賀里、中岡芽以、沙羅、閻魔大王。
    この五人を全員悪人とすること。
    つまり沙羅も善人ではない。全員悪人で、悪人同士がだましあい、殺しあう物語にする。そのうえでキャラ分けする。
    大事なのは、「悪人=欲にまみれた醜い人間」では必ずしもないということです。
    欲にまみれた醜い人間は、ただ人間が二流というだけです。悪人にも一流と二流がある。一流の悪人にはちゃんと美学がある。
    美学は、技を磨く過程で培われるものだと思っています。
    悪人も生きていくために技を磨かないといけない。その過程で美学が生まれる。技を追求する者には、必ず美学がある。
    池谷と中岡、二人に共通しているのは肉体的に貧弱ということです。池谷は生まれつき虚弱体質だし、中岡は女です。
    もし虎として生まれたなら、全力疾走で獲物に飛びついて、鋭い牙で殺せばいい。でも、彼らにその運動能力はない。
    そのかわり毒針を持っている。獲物に毒針を刺すためには、気配を消し、気づかれずに接近する必要がある。
    中岡も池谷も犯罪者ですが、その犯罪の技には彼らなりの美学があります。
    たとえば中岡は、ナイフで刺して財布を奪うというような低級なことはしません。阿賀里の洗脳の仕方、拷問の手順にいたるまで、徹底的に考え抜いている。
    池谷も同様で、ゆする相手、だまし方、金の受け取り法にいたるまで、こだわりがある。金を奪うまで(奪ったあとでさえ)相手がそれに気づかないように奪うし、気づいたときにはもう手遅れという状況を作っています。
    両者とも肉体的には貧弱なので、戦闘は避けようとする。中岡が主に狙うのは、体の弱い老人です。池谷の場合、肉体的なバトルが必要なときは阿賀里にやらせる。
    基本的に頭脳戦だけで、いかに鮮やかに金を奪うかを考えている。それだけを常日頃、研究していて、美学にまで到達している。
    池谷は、生きるためにその技を磨いた。そして二枚舌という、もはや特殊技能といってもいい話術を身につけた。
    とにかく頭の回転は速い。こざかしい悪知恵も働く。
    プライドを捨てるのも芸のうちです。彼は平気で土下座できるし、相手の靴だって舐めることができる。涙も自在に流せる。おべっかも使う。減らず口で、嘘八百ですべてを塗り固め、逃げ口上をべらべらとまくしたてる。
    これは悪人同士が殺しあう物語です。なので、善悪は関係ない。
    善人が報われて、悪人が懲らしめられるという道徳を広めることが、この小説の目的ではない。結末はその逆でもいい。
    大事なのは、池谷がその技をいかんなく発揮することです。
    彼は生きるために、ハイエナが死肉をあさるように、どんなに醜くて姑息でも、その技を磨いてきた。そしてその技を武器にして、命を懸けた戦いに挑まなければならない。
    池谷は沙羅の前で、なんとか生還のチャンスにつなげようとします。彼は必死で戦います。見苦しい抗弁をずっとくりかえす。
    できるかぎりのことをすべてします。嘘、言い訳、弁解、追従、頭をフル回転させて、生き残る道を模索する。
    その目的は金なので、美しくはないけれど、話術そのものは美しい。彼が命がけで磨いてきた技なので、一字一句に魂が宿っている。
    彼の美学がそこにある。そこに彼の人生が立ち現われる。
    生まれついた条件はよくない。見てくれも悪いし、育ちもよくない。そのせいで差別やいじめにもあってきた。
    その艱難辛苦に負けず、それでもなお生き続けるために、彼なりの戦い方を磨いてきた。そのすべてが、そこに現れる。
    小説において大事なのは、彼の人生の詳細を書くことではありません。彼の戦い方、そこにある技と美学を書くことで、結果的に彼の人生そのものが暗示的に(メタファーとして)立ち現れることが大事なのです。
    その結果、彼が勝つか負けるか、幸せになるか不幸になるかは僕は知らない。それはまた別の問題です。

    この物語には、池谷対沙羅、池谷対中岡という二つの戦いがあります。池谷は最終的に、どちらとの戦いにも負けます。
    沙羅との戦いには挑んではいけなかった。それを見抜けなかったのが敗因。
    中岡との戦いにも負けます。こっちは相手が一枚上手だった。
    池谷はわりと潔く負けを認めています。自分を上回った相手に対して敬意を払いつつ、殺されることを受け入れている。どこかスポーツマンにも似た精神性です。それが最後のほうの彼のセリフにも表れています。

    すげえ女がいたもんだ。
    自分と同種の人間が、この世にもう一人いるとは思わなかった。
    だが、しょせん池谷は偽物だった。
    中岡こそ本物だ。やっぱり本物はちがう。普通の女子大生にしか見えないのだが、脳ある鷹ってのは本当に爪を隠しているんだな。

    弱肉強食の世界で、彼は自分が勝ったときは容赦なく弱者の肉を食らっていました。逆に負けたときは強者に食われる覚悟をしていた。
    ただ、自分を上回る人間がいるとは思っていなかっただけです。
    そこにも彼の美学が表れている。
    いずれにしても大事なのは、その二つの戦いのなかで、三者(池谷、中岡、沙羅)の悪人としての美学がしっかり語られていることだと思っています。
    では、また次回。


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