木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第22回 映画講座 『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』②

    なぜ青観は、知らない芸者のために絵を描いて送ったのか。
    その「動機」こそが、この映画のハイライトです。
    青観が絵を描いた動機は、ひとことで言えば、「寅次郎に負けた」から。あるいは「こいつにはかなわない」と思ったから、ということになるかもしれません。
    寅次郎には欲も私心もありません。ただ、人情だけがある。
    理屈ではなく、かわいそうだと思ったその瞬間には、ただそれだけの理由で、もう夢中になって行動しています。打算も保身もない。
    そんなやつにはかなわない。言うことはめちゃくちゃだけど、言うだけのことはある男だと青観は思う。
    だから寅次郎のあのセリフが、青観の心に突き刺さります。
    おまえはただの大金持ちで、絵がうまいだけの人間だ。そう言われたようなもので、青観は反論できなかった。青観は寅次郎より金持ちだし、才能にもあふれていますが、でも男としてのスケールで負けている。
    青観は子供みたいにしょげてしまう。そして思い直して、事情はよく分からないのだけど、その芸者のために絵を描いて送ってあげる。

    ここからはエピローグです。
    青観は芸者に絵を送ったあと、寅次郎の実家を訪ねるのだけど、寅次郎はもう旅に出てしまっています。
「すれちがい」は『男はつらいよ』で頻繁に出てくるシチュエーションです。
    訪ねたときにはもういない。でもこっちが寅次郎を必要としたときは、ふらっと現れる。それがいわば寅次郎の芸だったりします。

「そうか、寅次郎くんは旅か」

    青観は寂しげに言って、帰っていく。そのあとをさくらが追いかけていって、二人で帝釈天の参道を歩きながら、話をする。
    このシーンが、なぜかやたら印象に残ります。
    なぜなのか。
    このあと青観は、寅次郎とのあいだに何があったのかをさくらに話すのですが、そこは映画では描かれていません。
    ですが、観る側には想像できます。
    青観がさくらに「寅次郎とのあいだにあった物語」を話す。さくらはそこで初めて、お兄ちゃんが自分の知らないところでそんなことをしていたんだと知る。そのときのさくらの表情までちゃんと想像できます。
    観る側が想像できるから、あえて描かなくていい。これも映画監督の芸なのだと思います。いわずもがなのシーンを描くのは、下手な証拠ということです。
    そしてここにきて、さくらが青観の自宅に七万円を返しに行くシーンが意味を持ってきます。
    一見すると必要ないシーンのように思えるのですが、最後まで観ると、少なくとも二つの意味があることが分かります。
    第一に、ここで青観の妻を登場させることで、龍野の昔の恋人と対比させること。
    青観の妻は、寅次郎とは真逆で、人情が分からない女性として描かれています。さくらが青観の妻と会ったあと、気疲れしたような表情を見せるので、それが分かります。
    実はこういうところもうまい。青観の妻の厚顔ぶりを描くのではなく、さくらに軽くため息をつかせることで、それが間接的に伝わるようにしています。
    おそらく青観なりに、画家として成功するための苦労があったのだろうなと、ここで想像できます。
    若いころは売れてなくて、だから経済的なこともあって、龍野の昔の恋人と結ばれることはなかった。そのことで負い目もある。その後、青観はこの妻と結婚するのですが、この妻の灰汁の強さみたいなものが青観を支えて、その内助の功によって成功できたというような雰囲気がある。
    そこは特に説明はないのですが、妻と昔の恋人を対比させることで、暗に匂わせています。
    第二に、青観とさくらとのあいだに心の交流を作ること。
    もしさくらが七万円を返しに来ていなかったら、青観はおそらく寅次郎とのあいだに何があったのか、さくらには話していません。さくらが律儀に七万円を返しに来るような女性だったから、話す気になります。
    言いかえれば、さくらは律儀に七万円を返しに行くことによって、青観からお兄ちゃんの話を聞く資格を得るともいえます。
    つまり七万円を返しに行くシーンがフリになって、さくらと青観が参道を歩く印象的なシーンにつながっています。
    説明せずに伝える技術と、シーンとシーンとのつながりをうまく作るところ。山田洋次の芸の細かさは、こういうところにもよく表れています。

    そしてラストシーン。
    寅次郎はふたたび龍野に戻って、芸者に会う。そして青観が、芸者のために絵を描いて送ってくれたことを知る。
    芸者は、なぜ青観が自分のために絵を描いてくれたのか、さっぱり分からない。おそらく寅次郎は、そんな野暮な説明はしないだろう。ただ、龍野から東京の方角に向けて、手を合わせる。

「先生、勘弁してくれよ。俺がいつか言ったことは悪かった。水に流してくれ。この通りだ。先生、ありがとう。本当にありがとう」

    このときの寅次郎の表情、セリフの言い回し、手を叩く音まで、全部いい。
    これぞ渥美清という演技です。渥美清の手の平はぶ厚くて、やわらかいのだと思う。ストラディバリウスのバイオリンのように、パチン、パチンと、いい音を奏でる。
    そして寅次郎も、このあいだは青観に対してめちゃくちゃ無礼なことを言っていた自覚はあったんだなということが分かって、ちょっと笑える。

    山田洋次の作品は、総じてストーリーがきれいです。
    そしてそのきれいなストーリーラインを、役者の演技が汚さない。きれいなまま取りだす。
    ストーリーは、なぜ青観が知らない芸者のために絵を描いたのか、その動機につながるようになっています。
    ①一宿一飯の恩、②寅次郎とその家族の人情、③七万円を律儀に返しに来たこと、④龍野で昔の恋人に会えたこと。これらがシーンのなかにちゃんと落とし込まれていて、最後に⑤寅次郎の長ゼリフが来る。
    人間は一つの動機では動きません。①②③④⑤と順を追って、青観は寅次郎の生き様を見せつけられる。最後に、寅次郎にこれを言われたらかなわない。そこまで来て、やっと知らない芸者のために、画家としての信念を折ってまで、一枚の絵を描く。
    観る側は、なんとなく映画を観ている(ストーリーを追っている)だけなのですが、青観の心理的過程が自然と分かるようになっています。
    僕はこれを「王手をかける手順」と呼んでいます。
    いきなり王手をかけてはいけない。①から④まで手順を踏んだうえで、最終的に⑤で王手をかけることが大事だということです。いきなりセリフで語るのではなく、寅次郎の最後の長ゼリフが活きるまでの状況を丁寧に積みあげていかなければいけない。
    そして最後に青観が芸者に絵を描いて送る。その瞬間、寅次郎が青観にしてあげたことと、青観が寅次郎にしてあげたことが、価値的にイコールになる。
    青観が描いて送った一枚の絵と、寅次郎が青観にしてあげた一宿一飯の恩とが、等価になる。つまり渡したものが返されることによって、物語のカタルシスが生まれる。
    役者陣に、この物語の仕組みに対する理解がちゃんとあって、この手順を損ねない。この流れを乱すような演技はしないので、観る側にするっと物語が入ってくる。
『男はつらいよ』が五十回も続いた要因は、ここにあると思う。
    では、また次回。

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