木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第16回 小説講座 『容疑者Xの献身』②

『容疑者Xの献身』で僕が注目するのは、これが昔話の『鶴の恩返し』と同じ物語の構造を持っていることです。
    両者を重ねあわせてみます。

『鶴の恩返し』
(起)おじいさんが、罠にかかった鶴を助ける。
(承)おじいさんとおばあさんが暮らしている家に、一人の若い娘が訪ねてくる。娘は老夫婦の子供になって、一緒に暮らすようになる。
    あるとき、娘は部屋にこもって機織りをするので、けっして戸を開けないでくれという。その部屋から、ギタン、バタンと機織りする音が聞こえてくる。娘が部屋から出てくると、美しい織物を持っていた。それを売ったら大金になった。
(転)その後も娘は織物を作った。そのおかげで老夫婦の暮らしは楽になった。だが、娘がどのようにあの美しい織物を作っているのか、戸を開けて見てみたいという衝動を抑えられなくなる。
(結)戸を開けて見てしまう。そこにいたのは、あの日、助けた鶴だった。鶴は自分の毛を抜いて織物を作っていた。姿を見られた鶴は、もう一緒には暮らせないといって、飛び去っていく。

『容疑者Xの献身』
(起)石神は自殺を試みる。だがそのとき、たまたま引っ越してきた靖子に救われる(ただし靖子に石神を救ったつもりはない)。
(承)靖子が元夫を殺してしまう。石神はその場に駆けつける。靖子を助けるために、死体を自分の部屋に移して、アリバイトリックをしかける。そのおかげで靖子は容疑者から外れる。だが靖子は、石神が何をしたのかは教えられない。
(転)靖子は、石神が何をしたのか、なぜ自分たちを助けてくれるのかを知りたいと思う。逆に石神は、それだけは絶対に知られまいと、完璧なトリックをしかけ、自分をストーカーに見せかける偽装工作までする。
(結)謎を解く、つまり戸を開けてしまうのは湯川である。石神は自分を犠牲にして、靖子を助けようとしていた。謎を解かれてしまった石神は、鶴同様にその場にはいられなくなり、精神が崩壊してしまう。

『鶴の恩返し』の基本構造は、ミステリーといっていい。娘は何者で(WHO)、なぜ織物をくれるのか(WHY)、どのようにその織物を作っているのか(HOW)、この三つの謎とともに物語は進展します。
    東野圭吾は、これとまったく同じ物語の構造を使って、ミステリー小説を構築しています。
    ジャンルでいえば「報恩譚」になります。
    ポイントは、恩返しをしようとする鶴と石神は、恩を返す相手に対して、三つの謎(WHO、WHY、HOW)を知られないようにするという点です。知られてしまったら、飛び去って行かざるをえない。

    この小説を傑作にしているのは、設定の段階で、探偵役の湯川を、石神の大学時代の友人にしていることだと思います。
    もちろん、ただの友人ではありません。湯川と石神を対極に配置することで、それぞれのキャラクターを引きだしています。
    大学時代、湯川は科学専攻で、石神は数学専攻ですが、どちらかといえば、石神のほうが優秀な学生でした。湯川は石神を天才的な数学者だと評価していた。
    だが大学卒業後、明暗が分かれます。
    湯川は現在、大学教授をしています。変人と評判ですが、今でも科学の世界にいて、研究を続けられる立場にいます。運がよかったのでしょう。恩師や友人に恵まれて、幸せな生活を送っています。
    しかし石神は、はっきりとは書かれていませんが、大学の人間関係につまずくかして、大学教授の職には就けず、湯川より優秀な頭脳を持っていたにもかかわらず、今は高校の数学教師をしています。
    上司に媚を売ったり、政治的な駆け引きができる人間ではないので、大学内の派閥をうまく渡っていけなかったのでしょう。才能とは関係ないところで、数学者として脱落してしまった。
    今でも数学の研究は続けていますが、専業ではないため、趣味に近いものになっています。
    石神の授業は、暗いからか、教え方が難しいからか、生徒に人気がない。友人もいないし、家族もいない。結婚もしていない。恋愛自体、したことがない。
    本当はずっと数学の世界にいて、研究に没頭していたいのだろうけど、その望みはもう絶たれている。今はなんのために数学をやっているのかも分からなくなっていて、自殺することばかり考えている。
    大学卒業後、人生の明暗が分かれた湯川と石神という対比があります。
    湯川は石神を見るとき、そこにもう一人の自分を見ます。
    自分だって運が悪くて、人生の歯車が狂っていたら、石神のようになっていたかもしれない。同情以上に、他人事とは思えない気がして、ぞっとしてしまう。
    湯川はやがて、石神がしかけたアリバイトリックを看破します。石神が何をしたのか、それが分かったとき、湯川の目に、石神の心の闇が、そして大学卒業後にどんな人生を生きてきたのか、彼がどれだけ孤独だったかが、すべて透けて見える。同時に、読者の目にもはっきり見える。
    トリックを見破って、犯人が逮捕されるというだけのミステリー小説ではなく、そのことによって石神の心が可視化される。ここが大事なところです。

『鶴の恩返し』も同じです。
    鶴は、自分を助けてくれたおじいさんに恩返ししたいと思う。でも、人間と鶴は別の生き物なので、同じ世界に住むことは許されない。これは自然界の掟です。
    そこで鶴は人間に化けて、おじいさんのもとを訪ねる。そして貧しい暮らしをしている老夫婦のために、身を削って機織りをする。
    鶴は、それで老夫婦の暮らしが豊かになればいいと思う。同時に、この鶴なりに、老夫婦と暮らす日々が楽しかったのだとも察せられる。
    でも、戸を開けられてしまい、鶴だとバレてしまった。人間と鶴は、同じ世界に住むことは許されない。だから飛び去っていかざるをえない。
    その飛び去っていく鶴の姿に、鶴の心のすべてが表れています。
    老夫婦との楽しかった思い出、戸を開けられて本当の姿を見られてしまったときの悲しさ。でも、これで人間と鶴の、掟破りの生活を終わらせられるという安堵感。そのすべてが飛び去っていく鶴の姿に表象されたとき、物語のカタルシスが生まれる。

    湯川は、やがて石神がしかけたアリバイトリックを解くのですが、それ自体は使い古されたトリックなので、目新しいものはありません。
    でもトリックは、この小説においてさほど重要ではありません。大事なのは、その謎が解かれることによって、石神の心の闇が、湯川の目に、そして読者の目にはっきり見えることです。
    石神はなぜこんなことをしたのか。その動機が分かることによって、物語の結末にカタルシスが生まれる。
    次回に続きます。

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