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木本直美 プロフィール

私は行政書士として、主に相続や遺言書作成の仕事をしています。ただ、「行政書士」というのはあくまでも肩書きです。依頼者のお困り事を解決するために、業務上必要な資格にすぎません。

このような表現が適切かは分かりませんが、“行政書士という資格を使って、依頼者が抱える課題を解決する”と言えるかもしれません。例えば、「夫婦で大切に築き上げた資産を子どもに相続したい。でも、老後面倒を見てくれた子どもと、そうでない子どもとがいて…」

そんなお話をじっくり聞かせてもらい、行政書士という立場からどこをどう整えれば、依頼者にとって一番満足いくものになるのかを考える。そんなお仕事だとも言えます。仕事ではありますが、依頼者のお話は私自身の未来の話でもあり、貴重な経験をさせてもらっているのです。

その人が抱えている課題を解決し、人生の最後を美しく、満足いくものにするお手伝いが少しでもできたら。このようなやりがいのある仕事に出会わせてもらった私のこれまでについて、少し紹介させてください。


おばあちゃん子の幼少時代

私は、神戸で育ちました。当時としては珍しい共働き世帯で、おばあちゃんがよく面倒を見てくれました。寒天ゼリーを作ってくれたり、バドミントンをしてくれたり、おばあちゃん子でした。今になって思うことですが、おばあちゃんと過ごしたあの日々が、高齢の方の話を心から興味深く聞ける土壌になっているかもしれません。

一人っ子で、父から過保護気味に育てられたこともあり、内向的でした。外でみんなと遊ぶのは得意ではなく、誘われたら後ろからついていくような子どもでした。編み物や手芸、読書など家で過ごすことが多く、人との距離感の取り方や処世術がよくわからないまま、大人になっていったように思います。

課題を解決したい性格の発露

そんな私が就職したのは、とある飲料メーカーです。神戸支店の物流部門に配属された時、待っていたのは残業の毎日でした。問屋さんから電話を受けてメモ。電話を切ると得意先コード、得意先名、注文内容、出荷日などをまとめて伝票化するというのが主な仕事です。

新入社員の頃

特に出荷日は、得意先への到着日を考慮しなければなりません。得意先毎に出荷日を判断しながら書くのは、骨の折れる作業でした。毎日、ほぼ同じ作業を繰り返す中で、「無駄が多い…なんとかならないものか」と考えるようになりました。

そこでまず行ったのは、注文方法を簡素化することです。注文書にあらかじめ、得意先コード、得意先名、商品コード、主要製品などを印刷しました。それを50社の各担当者に持って行って「これに書いてファックスしてください」と頼みました。

すると問屋さんが「毎日電話せんで済む」と大変喜んでくれたのです。そして、支店の残業時間は激減し、私自身の残業はゼロになりました。あっという間に全国の支店が真似をし、全国の支店の残業が激減します。仕事が楽になった上に、みんなから「すごいね」と褒められた私は、気をよくして改善できそうなことを色々やり始めました。

業務改善にやりがいを感じる日々

次に行ったのは、社内でスムーズに情報を共有する仕組みを作ることでした。当時、会社では1年分の受注書を1つの倉庫に保管して、各支店から発注が来たら社内便で全国へ発送していました。私は受注書を社内のネットワークに掲載し、各支店が必要な時に発注書をダウンロードして使えるようにしました。保管用倉庫は空っぽ、社内便も不要になりました。

続いて手をつけたのは、社内のお困り事のマニュアル化です。全国に支店があった会社では連日、自社の社員から問い合わせの電話がジャンジャン鳴っていました。

「転勤先の倉庫の場所がわからない」
「新しい支店の物流ルールがわからない」

問い合わせ内容のほとんどはマニュアル化できると見込んだ私は、マニュアルを作って社内ネットワークに載せていきました。地図や各エリアの物流ルールだけなく、困り事をイエス/ノークイズのように辿っていくと答えがわかるように整理しました。

あんなにも電話対応でざわついていた物流部が、ついにシーンとなったのです。無駄を省いて、ミスの原因となる工数を減らし、結果を出すことにやりがいを感じていました。

物流部の人員は32人から、2年で16人になりました。その分、もっとやりがいを直接感じられる仕事や、会社の利益に貢献できる部署に人を充てることができます。ものごとの課題に気づいたらそれを直したくなる…そんな性格が仕事のベースにあるように思うのです。

退社。そして大分への移住

そんなこんなで、本社の物流改善を10年間専任で務めました。チャレンジを後押ししてくれる社風もあり、企画を上司に出すと「やってみれば?」とやらせてくれました。仕事が楽しくて夢中で行っているうちに、会社からも評価を頂きました。

そして、毎年何千万の経費削減を続けていたところ「東京に来て、もっと大きな仕事をしないか」と声をかけていただきました。しかし、父が定年とともに大分へ移住するタイミングと重なり、東京に行くか、会社を辞めて大分に行くかの究極の選択を迫られたのです。

当時勤めていた大阪本社では、残業ゼロ、有休100%消化という日々を送っていました。というのも、娘が3歳になる直前に離婚し、実家の力を借りながら仕事と子育てに邁進する日々を送っていたからです。仕事のことは通勤電車内で考え、終業ベルと同時に仕事を終えて、保育園に迎えに行く毎日でした。

もし、東京に行ったら激務となり、残業なしは無理だろう…そんな状態で、知らない街で子どもを一人で育てるのは難しい。仮にできたとしてもいずれ子どもが壊れるか、私が壊れるか、二人とも壊れるか…そう考えた時、私は仕事を辞め、両親と共に大分に移住することを決断しました。

不動産の実務と宅建資格取得

家族のためとはいえ、あんなにやりがいを感じていた仕事を失い、友達もいない土地に引っ越し、真っ暗な状態でした。

移住後は農業関係の仕事を経て、不動産会社で働き始めました。そこで売買実務の経験を身につけ宅建資格を取ったのですが、この経験は後に私を大いに助けてくれることになります。

農業関係の仕事にて無農薬味来コーンの収穫中

私自身不動産オーナーでもあり、不動産を借りて住む一般ユーザーでもあったので、両者の見方や気持ちがわかりました。そこに不動産業者としてのものの見方も加わったのです。不動産に関わる立場の違う三者を経験したことで、それぞれの立場に立って的確なアドバイスができるようになりました。

遺言書作成や相続の際、不動産の存在は切っても切り離せません。そんな時に、依頼者の相談に乗ったり、司法書士の方と直接話したりできるので、当時の経験は本当にありがたいものだと思っています。

父の死と母の負担

移住して数年が経ち、父が亡くなります。それにより、母の生活環境は激変しました。葬儀、納骨といった行事に始まり、不動産や水道電気の契約者名義の変更に父の銀行口座の解約など、事務手続きの波がやってきました。田舎の家は敷地も広く、掃除や庭の草むしり、ゴミ出しも高齢の母には大きな負担となりました。

ついに、母は疲労やストレスでお豆腐しか食べられないほどに弱ってしまったのです。正確に言うと、気づいた時には母は貧血やめまいで動けないほどになっていました。当時、娘の通学のために学校の近くにアパートを借りて、別に暮らしていたため、母の様子が見えていませんでした。

母は昔からこまめにメモを取る人で、実家に行くと父が亡くなった後に母が行った手続きなどが一覧に記録されていました。そこに記されていたのは、口座解約だけで10個くらいの手続き。各手続きのために、死亡の届け出から、戸籍を集めたり、印鑑証明書をとったり、合意書を用意したりする必要がありました。

戸籍を郵送で取り寄せるには、定額小為替と印鑑証明が必要です。定額小為替は郵便局か、ゆうちょ銀行の窓口でしか買えません。車の運転をしない母は、郵便局に行くために1日2本しかないバスに乗って定額小為替を買いました。

一方で、印鑑証明は役所でしか手に入らないので、今度は役所に行かなければなりません。やっとの思いで必要書類を揃えたら、今度は郵送するためにまた街に出て行きます。一つの手続きが終わるまで1カ月ほど待ち、原本が返ってきたら2つ目の手続きをする。こんな日々が数ヶ月続いていたのです。

相続の仕事との出会い

一連の状況を理解した私が率直に抱いたのは「どうなってるの?」という思いです。

ただでさえ煩雑な手続きな上に、運転をしない高齢女性にとっていかに大変なことでしょうか。これは日本全国に困っている人がたくさんいるのではないか、という思いでした。では、煩雑な手続きは専門家に頼んだらいいのでは? そう考えて、相続に関わる手続きの専門家を思い浮かべてみました。

税金は税理士
登記は司法書士
裁判は弁護士

しかし、相続の手続きを完結するには、それぞれの専門家の仕事では少しずつ溝があることがわかりました。溝を埋める方法はないのかと探し、「相続士」という民間資格を見つけて取ることを決めます。

この時は持ち前の業務改善の血が騒ぎ、「やる人がいないなら私がやろう」といった気持ちでした。一方で、母の苦労を見て、この仕事に大きな可能性を感じたのも事実です。高齢の女性は大切にお金を扱いますが、本当に必要なものに対してはきちんとお金を支払います。だから仕事をしてお役に立てれば、これで自分が生活していけると思ったのです。

相続にまつわる3つの仕事

当時の私は、相続の仕事は主に、大きく以下の3つに分けられると考えていました。

一つ目が、遺産です。いわゆる預貯金や株式などをどうするかということです。二つ目が、不動産をどうするかということです。三つ目が、生活に密着したことです。生活に密着したこととは、納骨や一周忌など法要に関わること、水道電気ガスや銀行、クレジットカードの手続きなどのことを指します。

二つ目の不動産については、自身の経験からできますし、三つ目も関係先に問い合わせをしていけばできることです。だからあとは、一つ目の遺産の手続きさえできれば相続の仕事ができると思いました。

やりたいこと、できること、仕事になることという条件がピッタリと重なり、「これしかない!」と相続士の資格を取りました。ただ結果的に、相続士の資格だけでは相続に関するすべての仕事、つまり依頼者のお困り事の全てを解決して差し上げることができなかったのです。

湯布院にて相続無料相談会

行政書士資格の取得

時を同じくして、大学の先生から行政書士資格の取得を勧められていました。私が51歳の時のことで、難関資格の取得など難しいと思い、受け入れませんでした。しかし、先生が懲りずに勧めてくれるので、そんなに勧めてくれるならと勉強を始めます。合格したのは3年目、54歳のときでした。

いざ行政書士になってみると、自分が求めていた仕事内容にあまりにもドンピシャでびっくり。「これなら私が実現したかった相続の仕事をすべてできる。あとは全力で走るのみ!」と、仕事に邁進しました。

経営革新企業認定式

行政書士となって6年が経ちました。決して簡単な仕事ではありませんが、人生の先輩である依頼者の方々と関わるこの仕事に、とてもやりがいを感じています。ただ多くを経験するにつれ、「こうだったら、依頼者はもっと幸せな人生のゴールを迎えられたかもしれない」、「こうだったら、もっとお役に立てたかもしれない」、「あの時、これがあれば…」ということも重ねてきました。

自然郷おむすびカフェでの相続相談会

そんな経験を重ねる中で出た一つの答えがあります。遺言書とそれに添える付言を用意しておくことで、人生の最後をより美しく、より満足いくものにできるということです。一人でも多くの方が幸せな人生のゴールを迎えられるように。今後はよりいっそう、遺言書と付言の役割をお伝えしてゆきたいと思います。


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