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ラベルは部分的。だから変化が可能。

ラベルとは、「全体性を説明していくための、ある特定(一部分)の現実」である。

机の上に置いてあるコップを指さして、わたしたちはコップと言うが、コップと言った途端にコップという言葉がある一連の「関連性」を意識させる。

あなたの意識のなかにも、わたしの意識のなかにも、「コップに関連したある意味」が存在します。

たとえば、これはコップではなくてグラスだ、あるいは容器だ、ホルダーだ、ということもできる。

いくつかの呼び名があるが、呼び名によってわたしたちがどのようにそれに反応するか、どのように使うのかが変わってくる。


現実的なエピソードではあるが、わたしは旅行に行くといつもコーヒーのマグカップを買って帰る。

わたしはカフェラテが大好きなので、毎朝一杯飲む。

なので、いろいろな場所で買ったカップがある。

ラスベガスではあの有名なマイケル・ジャクソンが描かれたカップを買った。

そのカップを見た途端に、わたしには、ラスベガスでの思い出、ラスベガスでいっしょにいた方たちの記憶が洪水のように想起される。

比喩的な意味では、このカップはわたしに記憶を呼び戻す「記憶の入れ物」であるといえる。

また、ときには流し台にカップを落として、柄が割れて取れてしまうことがある。でも、そのときわたしは捨てることができない。思い出があるから。

そこで、わたしはそれに与える「ラベル」を変える。当然それはもうコーヒーカップではない。取っ手が取れてしまったので、熱くて持てない。

わたしはそのカテゴリーを変えて「入れ物」にする。入れ物とは、中に何かを入れるものであるということをわたしたちは知っている。

「じゃあ、何を入れようか」と考える。

わたしの机の上には常にペンがいっぱい転がっているから、ペン立てとして使える。または、花を生けるためにも使える。

ラベルというのは、常に「一部」の記述である。その時、もうすでにわたしたちは削除のプロセスを経ている。

「削除している」とは、常に注意をあるものに向けていて、何か別のものには向けていない状態である。

つまり、ひとつのコンテクストの「外」にある。

どんなものにも普遍的な意味はない。特定の文脈を離れた、普遍的な意味を持つものはひとつもないのである。少しアカデミックかもしれませんが。

普遍的な意味を持たないからこそ変化、変更が可能になることに気づかなければならない。

ラベルとは、ひとつの物差しのようなもの。

たとえば、スーパーマーケットに行ってお米を1kg買いたいとする。

1kgの袋詰めを買うことも、1kg量ってお米を入れることもできる。

つまり、「米」を買いに行くという場合の「米」はまだラベリングされておらず、「1kgの米」という「数量のラベル」を貼るとそれが物差しとなって意味のあるものとなり、使える情報となる。

言語による「一般化」を通して、わたしたちは現実を説明している。

それの意味するところはきわめてドラマチックだと思える。

わたしたちはどんな瞬間であっても、ありとあらゆるものすべてに注意を向けることは決して出来ないわけだから、ある瞬間に起こった何十億もの情報のなかから「削除」、そして「解釈」というプロセスを経ることによって、その物事のラベルに到達するのである。

つまり、あらゆる記述は「部分的」であって、現実には常に記述された以上のものがある。だから変化を起こすことが可能なのだということである。


◆参考文献:クリスティーナ・ホール博士の言葉を変えると、人生が変わる NLPの言葉の使い方 2009

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