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可能性を拓く

あなたは今、自分の将来にはまったく選択の余地がない、と思っているのかもしれないが、それは、あなたの単なる思い込みに過ぎない。

今から、あなたには、自分の将来に可能性を拓く方法を持って帰っていただければ、わたしはとてもうれしい。

結論から言うと、その方法は信念を変えることである。

それはどういうことなのか、長くなるが解説をしていきたい。


信念とは予測である

人は、生き物である以上、魚や動物と同じように、生命を維持するために、降りかかる脅威から本能的に身を守るようにできている。

たとえば、ある日突然、愛する人が去ってしまったとする。そこで、意識は、なぜこんなが起こってしまったんだという理屈を理解したくなる

特に初めての出来事を経験したときはなおさらだ。まったく新しい経験というものは、どう理解してよいかわからないものである以上、脅威である。

そこで、その人はその出来事がなんなのかがわかるように、意味づけをしたくなってしまうのである。何か出来事が起きたときには、何の意味もそこに与えずにそのままにしておくことができないのである。

その意味が自分の中ではっきりわかるまでは、その人はずっと探し続ける。通常は、過去を振り返って、同じような感情を感じた別の状況を探そうとする

そして、何らかの意味づけができたときに、「ああ、そうか。こういうことが起きたんだな」とたどり着くことで脅威ではなくなり、「次にまた同じような脅威が起こった時にはこう考えればいいんだな、よし!」と、予測することができるようになると、ようやく人は先に進んでいくことができる

もちろんこれは意識的にやっているとは限らない。無意識の中で行われていることもある。


信念が形成される時期

それは、子どもの頃ということになる。

たとえば、夫婦がいて、その後ろに小さな子供がいたとしよう。

その子供は泣いている。そこはスーパーマーケットのお菓子売り場だ。子どもはお菓子が欲しかったのだろう。

お母さんが「だめよ」と言うと、子どもはもっと鳴き声が大きくなる。「静かにしなさい」と語気を強めるとさらに大きな声で泣いてしまう。子どもはずっと泣き続けている。

すると、お母さんは買い物かごをのぞき込んでお父さんに、「牛乳を買い忘れてたわ、ミルクを買ってきてくださる?」と言い、お父さんはミルク売り場へ向かった。そして、お母さんは子どもに言う。

「ほらね、あなたが泣いてばかりいるからパパはあっちに行っちゃったでしょう」と。

お母さんとしては子どもが泣き叫んでいたので恥ずかしくて静かにしてほしかっただけのつもりではあるのだが、よく見かける光景だと思う。

さらに、日常生活の中で、同じようなパターンをお母さんが子どもにしばしば使っていたとしたら、どうなるだろう。

たとえば、「あなたがご飯を全部食べないから、おばあちゃんが病気になっちゃったでしょう」とか。多くの親が、子どもはそんなこと言っても理解していないと考えがちだが、実際はそうではない。

そして、そういった経験をした子どもが将来、突然愛する人が去ってしまったとき、親によって形作られた予測を使ってその出来事を理解しようとする。「わたしがちゃんとしてなかったから、去ってしまったんだ」と。

そしてさらにそこから「これは全部自分のせいだ、自分は何をしてしまったのだろう」と意味を探し始めてしまい、先へ進むことができない。

つまり、子どもの頃にその人の人生における信念が形成されるのである。


形成される信念

「言葉」によって形成され、またその言葉に伴う「非言語的な振る舞い」によって形成されている。

たとえば、二歳の子供が何度もひどくぶたれるということがあったとする。しかし、二歳の子供が普通にそんなひどい目に遭わなければならないような悪事を働くとは考えられない。そこで、二歳の子供がぶたれるシーンをイメージしてみる。

お母さんが夕飯をつくったけれど、子どもが夕飯を残した。お母さんが「全部食べなさい」といい、子どもが「いやだ、きらいだもん」といったときパシッとぶたれる。

当然、二歳の子供は泣きだす。その時点で、なぜ自分がそういう目に遭うのか子供はわからない。

「世の中にはおなかをすかせて食べられない人もいるんですよ、だめじゃないの」などとお母さんかお父さんが子どもに言うことを聞かせるために、その状況を理解させるために意味づけをする。

そして、同じようなことが何度も何度も繰り返されるうちに、子どもはその状況の意味や振る舞いを理解していくことで信念が形成される。


信念の機能

信念は、わたしたちの意識下のレベルではあるが、世界に対してどんな反応をするのかの指示を出している

つまり、人間は、自分のする振る舞いが、自分の信念とマッチするように、振る舞いを選んでいる、と言える。

しかし、振る舞いを選択する前の時点で、選択肢はすでに制限されているのか拡張されているのか、自分ではわからない

そして、普通、人は自分の信念と一致していることだけを信じる傾向がある。なので、人は、自分の信念に一致したことだけに気づくことができるのであり、一致しなかったものは、見えていても見ていない(無意識レベル)。

さらに、信念は、それが想定していることの正当性を証明しようとする

たとえば、「積極的に誰かを愛するたびに相手の人は去ってしまうのは、何か私にいけないことがあるに違いない」という信念は、「私はたぶん、愛される存在ではないのだ」ということを想定している。

ここでふたつの出来事が起きる。根底にある信念が「自分は愛されない存在だ」ということだとすると、愛情があるようにみなし得る振る舞いを誰かがしてくれたときでも、その振る舞いは自分の予測とは一致しないの、その出来事を「削除」してしまう

または、一致させるために「歪曲」してしまうのである。たとえば、「きっとあの人は私を操ろうとしているに違いない」あの人は本当の私の姿を知らないんだ。本当の私を知ってしまったら愛してくれるはずがない」と言うのである。

起きた出来事の価値を低く評価したり、それをなんらかの形で取り除いてしまうということが起こるのである。


「削除」「歪曲」されている信念

~引用~
「人間の脳の中にある150億個の神経細胞が思考と希望とアイデアと態度を化学物質に変換する能力はまさに脅威だ。したがってあらゆることが信念から始まる。すべての選択肢の中でも最も強力なのは本人が何を信じているかなのだ。」
byノーマン・カズンズ『信念の定義』より
~引用~
「信念は知識の始まりではなく終わりである。信念は、すでにそこに想定していることを『確認』するために存在するのであって、それを調査検討するためではない。正当性を調査検討するのではなく、正当性を『立証』するのである」
byゲーテ

わたしたちは、現実で起こる出来事を「削除」「歪曲」された信念をもとに振る舞うことしかできないにもかかわらず、「本質を知っているかのように振る舞っている」

しかし、信念とは、過去に起こった出来事をもとに形成された、たったひとつの「可能性」を示したものに過ぎない、もしくはまだ作業中の「仮説」である。

わたしたちは、その「可能性」「仮説」に基づいて判断することでしか、わたしたちは現実の中を動いていくことができないのである。

また、わたしたちは、自分では初めてで理解できないことを、たったひとつの可能性や作業中の仮説からひとつを選んで「一般化」して理解しようとする。そういう意味でも、一般化されている信念とは人工的・恣意的なものである。

また、信念が形成されるまでに、何百回もの例を必要とはしない。何度か経験をすれば形成されるものである。

たとえば、子どもが親に「それはいやだ」と言ってパンと叩かれて嫌な思いをした、という経験をしたときに、子どもたちはそのことを別の状況にも当てはまるものとして一般化していくことがある。

学校の先生にも「それはいやだ」というのもあまりいい考えではないんだろうな、と。そしてまたこの振る舞いが、フィードバック・ループとして、ほかの状況においても一般化されていく。


言語でラベル化される信念

人が現実の出来事を経験したときに、「その経験はポジティブだ」「その経験はネガティブだ」のように言語によって出来事をラベル化する。

ただ、人が何かをラベル化をするときに、絶対的な言い方をしてしまうと、もうそこで可能性のドアを閉めていることになる。「この経験を考慮する方法はこれしかありません」「すべての人にとってそういうことなんだ」と言い切ってしまう。

一方、たとえば「私が見たところでは、これはネガティブなものに見えます」という言い方もできるのである。

このふたつのラベル化には違いがある。これはネガティブと「結論付ける」のか、ネガティブだと「私は判断する」と言う言葉の選択である。

少なくとも後者の言い方でラベル化をしている予測には「可能性が拓かれている」

さらに、信念を「結論付ける」ことは有用ではない。通常、人が出来事をラベル化するときには、その瞬間の見方を選ぶ

たとえば、「人間万事塞翁が馬」(淮南子)という中国の古い話がある。その話に出てくる老人は、良いことが起きたら悪いことが起きるかもしれない、悪いことが起きたら良いことが起こるかもしれない、と言い、その老人の言うとおりになっていく話である。

つまり、わたしたちは、何かの出来事が起きたとき、そのときにはその後に起こることを理解できないことがあるのである。

たとえば、次の出来事が起きて、先に進んだ後で振り返ってみて、初めてその出来事の意味を理解することができる、ということがあるものである。

それによって、古い信念を再評価する、再調整する機会が得らえる

たとえば、一時間に一億円と稼ぐなんていつでもできると思っている人もいるし、まじめに働いても豊かな生活はできないものだと思っている人もいる。

わたしたちは、信念として何を持つか、という「信念の選択」が重要なのである。


信念を選択できるものにする

それには、今持っている信念を再組織化するのである。

そもそも、信念とは、わたしたちが世の中を生きていくときにどのように自分自身をケアし守るかということのがその役割でもある。

ひとつひとつの信念は学習の結果であり、ひとつひとつの信念がそこに選択肢を提供している

だから、信念を捨てるということは、ある種の選択肢を捨ててしまうことでもある。

しかし、脳は、すべてを保存するアーカイブになっているので、本当の意味では信念を捨てることはできない

ただ、信念を再組織化することによって、五年前のその人ではなく、現在のその人にフィットするような形にすることができるのである。

つまり、あらゆる信念は、コンテクスト(その時の文脈)によっては、実践的に役に立つ、ということなのである。

たとえば、信念には、その人の信じるところのものへと人を行動に駆り立てていく性質があるため、アウトカム(目標)を立てるときに、モチベーションのひとつになっている。

なので、信念とは出来事に意味づけをしてわかりやすくしてくれる、あくまでニュートラルなもの、と考えることが信念を理解するうえでとても重要な考え方になってくる。

たとえば、何かに対する批評、批判をする。そのときその人は、その出来事と自分はまったく切り離されているかのような位置から、あれはネガティだとか、ポジティブだとか言っている。

その物事の本質に関しても、「絶対的な意見(主観的ではない意見)」を持っているかのように語っているが、本来はその人はその物事とまったく切り離すことができない位置にいるのだから、「主観的ではない意見」は持ち得ないはずである。主観的以外の意見などは、幻想なのである。それは本当の現実ではない、と。


信念をニュートラルなものと考える

わたしたちは、物事のどこに注意を向けるのかによって、何に気づくのかが決まる。

つまり、「別の見方へと招待する」ことが重要なのである。

そして、通常は、質問するのも効果的である。質問によって、同じ物事を別のフレームからみること(リフレーミング)ができるからである。

状況とは、基本的にニュートラルなものであり、人間がなんらかの意味を与えない限り、その状況には特定の意味はないのである。

”状況”のリフレーミング以外にも、”時間”を使ったリフレーミングがある。

たとえば、私が四十歳だったとして、自分には受け入れがたい信念を持っているとする。そして、七十歳で命が尽きるとする。ということはこれからの三十年間はその信念をもったまま人生の最後を迎えることになる。

そこで人生の最後から振り返ってみるのである。そのときなにをどのように感じるのか。もしかしたらそれより前に自分はもう倒れてしまうかもしれない。

そこで「そんな人生を生きたいのかな」と質問してみるのである。そうすることによって、新しい選択肢が拡がっていくことに気がつくことができるのである。


学びという見地から信念を見つめ直す

しばしば人は「自分にはまったく選択の余地がない」と感じるものである。そして自分は被害者であると感じてしまう。このとき、招待したいことがある。

あなたが「それしか選べなかったからそうした」と言い、たとえば貧しかったから子供の頃から家族を支えるために働かなければならなかった、とする。

でも、その「働く」という体験から「学んだこと」もあったのではないだろうか?「身に着いた技術」もあったのではないだろうか?そうした、それがあったからこそ学べたことにその人を招待したいのである。

もちろん、その人の人生でとても大変だった時期もあったであろう。しかし、学びという見地から過去を見ることを勧めているのである。

それによって、今までとは違う見方で、将来を生きていく可能性を拓くことができるのであるから。

あまり多くの人は認識していないかもしれないが、過去をどのように見ているのかが、これからの将来をどのように見ていくのかということに深く影響を及ぼしている。それが将来の可能性を拓いていくのであるから。


◆参考文献:クリスティーナ・ホール博士の言葉を変えると、人生が変わる NLPの言葉の使い方 2009 ~信念/観念と現実 より
クリスティーナ・ホール博士(Christina Hall Ph.D)
1978年、NLP開発者であるリチャード・バンドラー氏らによって設立された世界で最も歴史の長いNLP協会、The Society of NLPの現理事長。心理学・神経意味論言語学の博士号保持。
「究極の言葉の魔術師であり、NLPの発展に終わりがないことを証明し続ける人。NLPについて彼女に教えたことより、彼女から教わったことの方が多いと言えるだろう」By リチャード・バンドラー(NLP開発者)




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