道徳のアポリア
道徳とは摩訶不思議なものである。なぜ道徳的でなければならないかを基礎づけられないからだけでなく、そうかといって道徳から逃れることもできないからである。つまり、道徳を無邪気に称揚することも、道徳を完全に打ち捨てることも、我々の手に余るからである。一度道徳という事象に関わってしまった場合、この底なし沼から綺麗さっぱり抜け出すことが不可能だからである。
一見自明な道徳
なぜ道徳は基礎づけられないのか。明らかに守らなければならないような最低限の道徳があるではないか。もはやそれ以上基礎づける必要のない規範をを、全ての人が守るべきではないか。例えば、私が学校でいじめられているとしよう。同級生は私を意味もなく蹴ってきたり、私の弁当をゴミ箱に捨てたりといったことを常習的に行っていると仮定する。私は肉体的にも精神的にも深刻なダメージを負っている。そこで私は、「人は人をいじめてはいけない」という道徳を掲げて、残酷な同級生たちにその道徳を守るよう促したいという、やむにやまれぬ要求を持つ。
善良な人間ならば、そのような場面に会ったら、私の要求を至極妥当なものだとみなすだろう。彼は肉体的にも精神的にも傷ついている。不当な理由によって彼の人権が侵害されている。「人は人をいじめてはいけない」という道徳の妥当性は自明であるように映る。この普遍的に妥当するであろう規範を誰もが守るべきではないだろうか。
ヒュームの法則
悲しいかな、そうした判断は実は不可能なのだ。ヒュームの法則とプリチャードのディレンマが我々の前に立ちはだかるからである。ヒュームの法則から見てみよう。
ヒュームは、規範(べきである)を事実(である)から導くことの不可能性を示した。私が不当な理由でいじめられており、肉体的にも精神的にも深刻なダメージを負っているというのは事実にしか過ぎない。それらは、地球が自転しているだとか、日本は1945年に太平洋戦争で敗北したとかいった事実に過ぎないのである。そうした事実判断から、「人は人をいじめてはいけない」といった規範を導くことはできない。規範的言明(べきである)を事実的言明(である)という全く異質の判断から論理的に引き出すのは飛躍であるからだ。
プリチャードのディレンマ
仮にヒュームの法則を無視できても、プリチャードのディレンマのせいで、「人は人をいじめるべきではない」という道徳の基礎づけはまたしても失敗する。
私は上に、いじめが許されない理由の例として、「それが人を精神的にも肉体的にもダメージを負わせるからだ」だとか、「それに正当な理由がないからだ」といったものを挙げた。当然のことだが、これらの理由は、「人は人をいじめるべきではない」という規範の究極的な基礎づけにはまだならない。「なぜ人は人に精神的・肉体的なダメージを負わせてはいけないのか?」だとか、「いじめをするのになぜ正当な理由が必要なのか?」といったさらなる問いが立てられうるからだ。
こうして、ある道徳をどう基礎づけるかという問題は最終的に、「そもそもどうして人は道徳的であるべきなのか?(Why be moral?)」という問題に行き着く。そして、この「そもそもどうして人は道徳的であるべきなのか?」という問題に答えようとすると、かならずそれらは破綻するというのがプリチャードの指摘である。
仮にこの問いに、「それが道徳的に善いことだからだ」だとか、「道徳的な行為こそ人間にとっての善だからだ」といった答えを与えた場合、「人が道徳的であるべきなのは、それが道徳的であるからだ」といった空虚な同語反復となってしまうからである。しかし、そうかといって、「人は道徳的であれば結果として幸せになれるからだ」だとか、「全ての人間が道徳的であれば、社会に安寧がもたらされるからだ」といった回答も成功しない。幸福や社会の秩序といった、道徳とは関係のない要素によって道徳を基礎づけることになるので、道徳はそれらの要素を達成するための手段となり、人は非道徳的な理由で道徳を追い求めていることになってしまうからである。
ヒュームの法則の存在も、また事実に過ぎない
よって、ヒュームの法則とプリチャードのディレンマとが相俟って、道徳の基礎づけはことごとく失敗する。しかし、問題はここからなのだ。ここで探求を打ち切って、「道徳なんてものは不可能だ」、あるいは「道徳など打ち捨てて、むしろ反道徳的になろうじゃないか」などとと結論するのは簡単である。しかし、ことはそんなに単純なのだろうか。
ヒュームの法則が、「である」という事実から「べきである」という規範を導き出すことの不可能性を示すものであることはすでに確認した。つまり、「いじめを受けている人間は精神的・肉体的にダメージを負っている」、「いじめられている人間は不当な理由で権利を侵害されている」といった事実から、「人は人をいじめるべきではない」という規範を導き出すことはできないということである。
しかし、ここでいう「できない」とは何を意味しているのだろうか?当然のことながら、「人は人をいじめるべきではない」という規範を導き出しては「いけない」という意味ではあり得ない。そうではなく、事実から規範(ここでは、「人は人をいじめるべきではない」)を導き出すのは論理的な飛躍であるということを、この「できない」という言葉は指し示しているのだ。つまり、事実から規範を導き出すことはヒュームの法則に反する、という事実を指摘しているに過ぎない。
仮に、「ヒュームの法則に反する」という事実から「ヒュームの法則に反してはいけない」という規範を導き出せば、それ自体が当のヒュームの法則に反することになってしまう。よって、「精神的・肉体的にダメージを負っている」や「不当な理由で権利を侵害されている」といった事実から、「人は人をいじめるべきではない」という規範を導き出しても、別に構わないのである。それがヒュームの法則に反しているのは事実だが、事実はどこまでも事実に過ぎないのだから。
このように、ヒュームの法則は道徳の基礎付けを根本的に掘り崩すことができる武器であるが、道徳を基礎づけるという「不当な」要求を退けようとする試みまでも掘り崩してしまう、諸刃の剣でもある。次に、プリチャードのディレンマを見てみよう。
「事実は受け入れるべきである」という規範も基礎づけることはできない。
道徳を道徳的な理由によって基礎づけることも、道徳以外の理由によって基礎づけることもことごとく失敗してしまうというのが、プリチャードのディレンマであった。当然これらも、「道徳はいかなる方法によっても基礎づけられない」という事実を示すものであるに過ぎない。しかし、このプリチャードのディレンマは、ヒュームの法則よりも若干手強い。事実から規範を導いてしまっても構わないというのが、ヒュームの法則を利用した作戦であったが、プリチャードのディレンマは、そもそも規範を最終的に基礎づけることは事実上失敗するという指摘であるからだ。
そこで、道徳を基礎づけたい側は離れ業を行う。彼らは、「道徳の基礎づけは失敗するという事実を私は無視する」と宣言するのである。こうなると、道徳の基礎づけは失敗するという事実はもはや彼らの頭の中には無いので、彼らは再び無邪気にも、自分たちは道徳を基礎づけることに成功したと主張する。この馬鹿げた作戦を、プリチャードのディレンマ側が打ち破ることは、実はできない。
プリチャードのディレンマ側は道徳を基礎づけたい側に対し、呆れてこう反論するであろう。何をお前たちは言っているのだ。私たちが論理的に示したように、道徳を基礎づけることは不可能なのだ。「無視する」などと子供じみたことを言わずに、誠実にこの事実を受け入れろ、と。
これに対して道徳を基礎づけたい側はこう言うだろう。たとえそれが事実であったとしても、「人は事実を事実として受け入れなければならない」という規範を私たちはまだ受けいれていない。どうしてその規範に絶対に従わなければいけないのかを君たちは未だに基礎づけていないからだ。しかし、「人は事実を事実として受けれなければならない」という規範の基礎づけに君たちが成功することは永遠にないだろう。規範を基礎づけることは不可能だというのが君たちの主張だったのだからね、と。
このように、ヒュームの法則とプリチャードのディレンマは、それらを貫徹するとそれら自体が宙に浮いてしまうことが明らかとなった。尤も、あくまで宙に浮いてしまうだけであって、それらが反駁されたわけでは全くない。しかし、道徳を基礎づけることも、道徳を基礎づけることを禁じることも、どちらも究極的には不可能であることが少なくとも判明した。「道徳を無邪気に称揚することも、道徳を完全に打ち捨てることも、絶対にできない」と最初に私が書いたのはそのためである。まことに、道徳とは摩訶不思議なものである。