真の「国際化」とは何か
昨今、日本の「国際化」について様々な議論がなされている。例として、日本の大学における「国際化」を図るために、英語を学内の第二公用語とするべきではないかといった意見が挙げられる。賛否両論が飛び交う中、こうした方針が日本の大学において実際に打ち出され始めている。
私はこれらの政策方針に強く反対する。結局「国際競争力」という名目の下、日本が英語帝国主義に加担しているだけではないかと思う。日本の大学が真の国際化を果たすためには、むしろ、これまで以上に第二外国語の教育に重点を置く必要がある。つまり、日本の大学が学生への外国語教育において、英語教育一辺倒にならないような教育を志向することが重要である。
主に二つの理由から、私は上のように考える。以下では、この二つの理由とその根拠を述べる。
非英語圏以外の多様な価値観
一つ目の理由は、第二外国語の学習を通して日本の学生が真に多様な価値観を経験することができるからである。以下、2種類の辞書によって「国際化」と「言語」の定義を確認したうえで、この論点を詳述する。
デジタル大辞泉は、国際化を次のように定義する。国際化とは、「国際的な規模に広がること。また、国際的視野をもち、その観点に立って行動すること」 である。「国際的な視野をもつ」ことは、諸国家、諸国民間のそれぞれに関係しているような視野をもつことである。よって、諸国家、諸国民のそれぞれの歴史や文化に対する理解は、国際的な視野を身につける手助けとなることが分かる。
また、ブリタニカ国際大百科事典によると、言語は、「社会の全体像を反映すると同時に文化全般を特徴づけるもの」 である。よって、私たちとは異なる文化圏に属する人々や彼らの文化を深く理解したい場合、彼らの言語を多少なりとも理解していることが重要である。そして当然だが、英語以外の外国語を習得することは、英語圏以外の人々の歴史や文化に対する理解を深めることを意味する。
つまり、日本の大学における第二外国語教育は、学生に国際的な視野を身に付ける手助けとなる。すなわち、第二外国語教育は学生に、非英語圏に属する人々の多様な価値観に触れることを可能にする。
英語教育による価値観の均一化
二つ目の理由は、日本の大学における英語一辺倒の外国語教育が、日本の学生の価値観の均一化をもたらしかねないからである。
こうした意見に対して、次のような反論が想定される。それは、「英語圏以外の文化圏に対する理解を深めるためにこそ、英語が必要なのではないか」、といった反論である。
たしかに、英語圏以外の文化を理解する上でも、ある程度の英語によるコミュニケーションは欠かせないであろう。英語は現在、世界共通の公用語である。この英語の手助けによって、非英語圏の人々とも活発に交流することが可能となっていることは否定できない。
しかし、その英語によって損なわれてしまう点も存在する。例えば、私たちは非英語圏に属する相手とのコミュニケーションの際に、次のようなことを経験する。その相手に、相手の出身国特有の言語表現について質問した時、相手が「あの表現は英語に翻訳することが難しい」などと返事をする場合である。こうした経験をすると、非英語圏の文化を英語だけを介して理解しようとすると、どこかで限界に突き当たってしまうことに改めて気付かされる。
英語一辺倒の外国語教育は、英語圏の文化を理解する手助けにはなるであろう。しかし、それは非英語圏の文化に対する無理解も引き起こしかねない。よって、英語を学習するだけでは、真に多様な価値観を学ぶことに結びつかない。
結論
以上のように、日本の大学が真の国際化を成し遂げるためには、これまで以上に第二外国語の教育を拡充する必要がある。英語一辺倒の外国語教育に陥らないようにするための多角的な取り組みが重要と考える。
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