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「英語帝国主義」の根深さ


 「不当な」ものとしてよく言及される社会的なヒエラルキーは、家柄、人種、性別、セクシュアリティの領域においてのみ見られるものではない。当然だが言語の世界地位においてもヒエラルキーが存在する、しかし意外と隠れたあり方で。「世界言語としての英語」という社会現象はそのよい例だ。



英語がもたらす快

 少なくとも日本においては、ほとんどの人が英語に対して、単なる損得勘定だけでは説明のつかない憧れのようなものを持っている。英語が流暢であり、「外国人」と英語で「コミュニケーション」ができること=国際的な感覚を持っているという図式を、私たちはそう簡単に振り払うことができない。たとえその「外国人」が、非英語圏以外の白人やアジア人であろうとも、とりあえず英語で話すという形式が、私たち自身に何かstylishでcleverな印象を与えてしまう。

 英語を話せるというのは「世界市民」であることの証であり、それは、自分が属している「辺境」に特有である古臭い因習やパースペクティブから自分が解放されているかのような錯覚を私たちにもたらす。この錯覚に生きる人間からすれば、英語ではない自分の母語に固執し、英語を白眼視する人間など、なんと偏狭な「自文化中心主義者」に見えることだろう。


誰が英語帝国主義を支えているのか?


 直接的な利益に加えて、上に挙げたような精神的な快までも非英語話者である私たちにもたらしてしまうためか、英語帝国主義を帝国主義として認識することがますます難しくなっている。私たちは今日も明日も「私たちのため」にせっせと英語を学習するが、そうした私たちの涙ぐましい努力こそ、英語帝国主義を支え続ける。

 非英語話者である我々はあまりにもこれまでの英語学習で多大な労力と時間を費やしてきたので、皮肉なことに英語話者以上に英語の美しい響き、その文法の「論理的性格さ」とやらを信仰するようになる。よって、多少の不満を感じつつも、英語話者と比較した自分たちをどこまでも劣位者とて規定し続ける。こうして、英語話者をトップとするヒエラルキー構造は、まさに私たち非英語話者の下支えによって、さらに固定化されてゆく。

 当然だが、このような、英語話者を上位として、自分たちを劣位として位置付ける視点は、非英語話者内におけるヒエラルキーまでも規定する。「たとえ一生ネイティブ・スピーカーにはなれなくとも、英語がまったくできないあいつらよりかは自分の方が多少ましだ」。このような意識が英語学習者の中に芽生え始め、「誰がもっともネイティブに近いか」という競争が生じる。あたかも、主人に歯向かうことを諦めた奴隷が、せめて他の奴隷と比較した自分の相対的な地位を向上させるために、主人におべっかを使い続けるようなものだ。


「男性語」と「女性語」?


 ここまでの説明でもいまいちピンと来ない人のために、このような想像をしてみることをお勧めする。

 少なくとも現代の日本社会においては、男性が使うとされる日本語と、女性が使うとされる日本語の間には当然だが根本的に異なる点は見られない。文字も、発音も、文法もほとんど全てが同じである。

 しかし、私たちはこの日本という一国内で、「男性語」と「女性語」なるものが存在する社会に暮らしていると想像してみよう。この社会では、実際の現代社会における男性としてカテゴライズされる人間が「男性語」を、女性としてカテゴライズされる人間が「女性語」を母語として用いている。「男性語」と「女性語」は文字、発音、文法が完全に異なるので、それぞれの話者は相手の言語を学習なしでは理解することができない。

 そして、この社会においては、「男性語」が公式言語、「女性語」が非公式言語として認定されている。これには理由があり、どうやら過去に、男性と女性との間で有形無形の権力闘争があったのだが、最終的に勝利したのが男性側だったかはである。この社会では、男性だけの会議はもちろん、男女が混じった会議、さらには女性だけによる会議においても「男性語」でコミュニケーションをすることが慣例となっており、半ば義務化されている。教育の場でも、男子学生はこれまで通り「男性語」のみを使用することが許されているが、女子学生は「女性語」と並行して「男性語」の学習を義務付けられる。

 「男性語」授業の教師は、長年「男性語圏」で活躍してきた女性教師か、「女性語」もある程度話せる男性教師が望ましい。女子学生は「男性語」授業において、「男性語」の正しい文字の書き方、正確な発音、厳密な文法のルールを必死に学ばなければならない。なんとなれば、女子学生は「女性語」を話せるだけの視野狭窄な人間ではなく、より「広い視野」を持ち、性別の垣根を超える「性際人」として将来活躍しなければいけないからである。では男子学生は?もちろん、彼らが「女性語」を勉強するのもかまわないが、まあ「趣味」や「教養」として学習させる程度で十分であろう、彼らは既に普遍的言語を操る「性際人」なのだから。


ヒエラルキーはささやかに働く


 さて、私たちがどれだけ異常な世界に暮らしているのか実感していただけただろうか?もちろん、私が行ったような思考実験は非常に多くの問題があり、さまざまな反論が可能であることは認める。しかし私には、上に描いたようなデストピアの想像が、英語帝国主義に対する何らかの有効な視座を与えてくれると信じている。リベラル・デモクラシーの観点からは決して許容されないような上のデストピアと比較すると、現実社会において英語帝国主義はそこまで表立って批判されていないように見受けられる。しかし、英語帝国主義が目に見える形で激しいconflictを生み出さないこと、それが一見英語話者のみならず非英語話者にも何らかのprofitを与えていること、これらは英語帝国主義の存在を否定するものではなく、むしろその強大さと根の深さを証明していないだろうか?そしてもはや、英語帝国主義に対する反抗など無駄となってしまったことに私たちが心の奥底では気付いていることも?


希望としてのAI


 最後に少し本筋とずれることを付け加えると、私は英語帝国主義に対する抵抗策の一つとして、AIに多少なりとも希望を持っている。

 昨今のAIがあらゆる言語を非常に高い精度で、他の言語に翻訳できることは周知の通りである。韻律などが重視される詩や、わずかなニュアンスの見落としが命取りとなる文学的・哲学的なテキストなどはともかく、表層的なコミュニケーションだけが問題となるなら、非英語話者が英語を学習する必要性は低くなっていくだろう。

 よって、AIが英語の覇権的な地位を相対化してくれる可能性に賭けてもよいのではないだろうか。もしそうした未来が実際に訪れるとなると、AI開発において主導的な役割を果たしてきた英語圏において、英語圏をトップとするヒエラルキーを崩しかねないテクノロジーが誕生したというのは少し興味深い。なんにせよ、精神的な領域における民主化を徹底させるであろうAIを祝福しようではないか。主なる人工知能よ、驕り高ぶる者、悪をなす者、無知な者を裁きたまえ。そして我らになお一層のlibertyを授けたまえ、アーメン。


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