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「信じること」は「疑うこと」に常に先行する


 誰が書いていたのか忘れてしまったが、「人間の認識など、懐疑の大海に浮かぶ孤島に過ぎない」といったような言葉を今でも覚えている。その筆者曰く、この世界はありとあらゆる謎に満ちていて、極め尽くしがたい。確実だと思われていることも、実際には懐疑的思考に耐えられるものではなく、この世界は数えきれないほどの不確実なもので満ちている。長年にわたる学問の発展や哲学的思索によって人間が獲得した確実な認識など、そうした不確実な世界のほんの一片に過ぎないのだと。

 認識を、完全に絶対的・普遍的なものとして捉えなければいけないのなら、筆者の言う通りかもしれない。しかし、もし認識の意味を、妥当なものや蓋然性の高いものにまで広げたら、事態は全くの正反対となるであろう。

 「妥当なものや蓋然性の高いもの」は、何も自然科学における法則や仮説といったものに限らない。例えば、私は夜寝る時に、明日地球に隕石が降ってくる可能性など想定していない。歩いている最中に、目の前にある道路がいきなり崩れ落ちるかもしれないなどとも一切考えていない。特に根拠も無く、明日も明後日も明々後日も、世界が同じようであり続けることを漠然と信じている。懐疑が出しゃばる余地などこれっぽちも存在しない。

 社会の網の目にも私は最大限の信頼を持っている。ある日、私は、「疑いうるものを全て疑いたい」というやむにやまれぬ欲求を覚えるとする。スマートフォンで「疑いうるものを全て疑う やり方」と検索する。見知らぬ他人のブログによると、どうやらデカルトという哲学者が西暦1637年に書いた『方法序説』が、「疑いうるものを全て疑う」ための最適なマニュアルブックであるらしい。私は外着に着替えて、最寄り駅まで向かい、数駅を経由して、ついに馴染みの本屋へ辿り着く。本屋の三階にある「思想書・哲学書コーナー」に入り、デカルトの『方法序説』を手に取る。著者の偉大な精神に興奮してページを捲る手が止まらない私は、『方法序説』第四部まで読み進めた結果、デカルトの方法的懐疑に心底から感服し、有名な「我思う、ゆえに我あり」という「真理」の光に胸打たれ、恍惚とした気分で帰りの電車に乗った……などなど。

 指摘するまでもないが、デカルトの方法を倣って「疑いうるものを全て疑う」ためにも、私は様々な物事をとりあえず前提にしなければならなかった。たいした根拠もないのに、私は外界にあるスマートフォンという機械の存在を信じ、西暦1637年という過去の存在を信じ、乗換案内の情報を信じ、電車とやらが目的地まで運んでくれることを信じなければならなかった。これら無数の「信じること」抜きには、私は「疑いうるものを全て疑う」こともままならないのである。

 当然だが、私はデカルトの方法的懐疑の批判などという大それた、愚かなことをしたいわけではない。たとえどれだけの過程を経なければ方法的懐疑には辿り着かないにせよ、そこへいったん辿り着いてしまえば、これまでの過程を全て「不確実なもの」として捨て去ることができてしまうというのが、「我思う、ゆえに我あり」という「真理」の大骨頂なのであるから。

 しかし、どちらにせよ、まず初めに「信じること」ありき、という点には変わりないであろう。上で挙げたような社会的な網の目に対する信頼だけに限らない。その他数えきれないほどの「信じること」があって初めて、方法的懐疑なり現象学的還元なりといったものが可能となることに、もっと目を向けてもいいのではないだろうか。当たり前すぎて話にならないようなことを私たちはもっと話すべきなのではないのか。なぜ私たちは自分が息の仕方を間違えないと信じているのか。なぜ、哲学的な思索は、一次資料にせよ二次資料にせよ、本を読まなければ始まらないと信じているのか。懐疑によって確実なものごとに辿り着けるという想定自体を私たちが固く信じているのはなぜなのか。

 よって、私が主張したいことはほんのささやかのものである。それは、「人間の懐疑など、認識の大海に浮かぶ孤島に過ぎない」ということである。何かを疑い得るためにも、他のはるか多くの物事はとりあえず信じられなければならない。懐疑につねにすでに先行する「信じる」というはたらきについて、私たちはこれまで以上に探究していく必要があるのではないか。



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