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祖母との思い出は「大和の秘密」だった

引用 大和ミュージアムPR映像

戦後75年となる2020年、今年も暑い8月6日を迎えた。
なぜか幼少時から「8月6日はよく晴れる」という記憶がある。
今年も早朝から強い日差しとセミの鳴き声に、8月6日らしさを感じた。

祖父が憲兵時代に被爆直後の広島の街に出動して被爆したため、父は被爆2世に、私は被爆3世にあたる。
広島生まれの広島育ちだった私は、18歳から九州に移って今に至る。

そんな私には、ある思い出がある。

昨年に他界した、父方の祖母とのある会話だ。

祖母から「秘密にしておけ」と言われていたので、長らくそのときのことは誰にも話していなかった。
ところが、あるきっかけがあって、30年以上も秘密にしていた話をついに漏らしてしまった。


大和は撃沈されたのではない

まず断りを入れさせていただく。

この話は、歴史考証に反して議論を投げかけるような類のものではない。
少年時代を広島で過ごした、私と祖母との思い出話だ。


私の父方の実家、つまり本家は、こんなところにある。

現在は軍港で有名な呉市に編入されている「豊島」という離島だ。
「としま」ではなく「とよしま」と読む。
みかんとレモンが有名な島で、いまやブームとなっている「瀬戸内レモン」はこのあたりが発祥だといわれている。

私の父は6人姉兄弟の4男坊で、18歳で島を出て警察官になった。
その先で産まれた私は、盆正月くらいしか本家に顔を出さない、祖母からみれば幾人もの孫のなかの1人でしかなかった。

だから、祖母との思い出なんて大したものはない。

いつも島にいくと、庭先の井戸水を使って魚をさばいていたイメージと、なぜか大きな真鯛をさばくと真鯛の歯を切り分けて私にくれていたことくらいしか思い出はない。

ただ、私が小学生だったころ、祖母から「これは秘密にしておけ」といわれて、ある秘密を教えられた。

いつものように祖母が井戸水を使って魚をさばいていた。
私はその傍らで、鮮やかにおろされていく魚を見ていた。
「また鯛の歯をくれるのかな…」
その程度の、大したこともない好奇心で座り込んで祖母をみていただけだった。


祖母には弟がいた。
弟は、あの戦艦大和の乗組員だったそうだ。
本家の大きな仏壇の上には、昭和天皇・皇后両陛下の写真と、洋上から撮影したらしい大和の写真が飾ってあった。

祖母にとって、大和は特別な存在だったようだ。
その祖母の口から聞いた話は次のとおりである。

大和は撃沈なんかされていない、あれは終戦まで生き残った。
なぜなら、大和に乗っていた弟は終戦後に帰ってきたからだ。
そして「明日、最後の仕事をするために大和で出港する、秘密を守るために大和を沈めなければならない」と言って出かけていき、大和とともにこの世を去った。

すでにご存知の方が多いはずだか、大和は1945年4月7日、鹿児島の坊ノ岬沖で沖縄に向かう途中を襲撃されて撃沈された、というのが定説だ。
とくに詳しくなくても名前くらいは聞いたことがあるかもしれない「天一号作戦」の結末である。

数多くの資料や生還者の証言などもあり、定説どころか「史実」と呼ぶべき情報だろう。
私も、この記録を疑うつもりはないし、その余地もないと思っている。

では、祖母は私に嘘をついたのだろうか?

大和は終戦より4か月も前に撃沈されている。
祖母の弟が大和の乗組員として死没していることは、名簿によって確認されているのだ。
祖母の話のとおりなら、記録が、歴史が間違っていることになる。

祖母は、私にこの話をしたうえで付け加えた。

これは重大な秘密だから、誰にも話しちゃいけんよ。
もし話したら、憲兵さんに連れて行かれるかもしれんけんね。

とんでもない話だ。
小学生がそんな秘密を知らされて、易々と誰かに話せるはずもない。
平和教育をじっくりと受けてきた広島育ちの子どもなら、憲兵という存在がどれだけ恐ろしいのかをよく知っている。
メジャーなしつけ文句である「お巡りさんに逮捕されるよ」よりもずっと怖い。

結局、私はこの話を誰にもしなかった。
親にさえも話していない。
秘密を知った家族全員が憲兵に捕まってしまうかもしれないと恐れたからだ。


祖母の弟さんは「帰ってきた」のかもしれない

私が考えるに、この話の顛末はこんなところだ。

祖母の弟は、大和の乗組員として艦とともに生命を散らした。
ところが、無念があって魂だけは「帰還」した。
その弟の魂は、当時の海軍の誇りであった「浮沈艦・大和」を信じて疑っていなかったので、撃沈されたなどとは認識していなかった。
だからこそ「最後の仕事」と伝えて祖母の顔をみてこの世を去った。

まぁ、そう考えればどうにかこじつけられないこともない。
戦地で散ったはずの家族が帰宅して喜んだのに、翌日には忽然と姿を消したとか、よくある戦争怪談だ。

あるいは、祖母の「無事に帰ってきてほしい」という思いが白昼夢となり、その体験を真実と誤認していただけかもしれない。

もしかすると、単に離島にきてヒマをもてあましていた少年をからかったに過ぎないと考えることもできる。

いずれにせよ、答えは出ない。
祖母の墓前で問いかけても、せいぜい鯛の歯が「コロン」と落ちてくるだけだろう。

だが、数多くの記録や証言に反して「実は大和は撃沈されていなかった」と仮定しながらifストーリーを考えるのもまたロマンがある。


広島・長崎の悲劇や戦争の歴史を忘れてはならない

今年も暑い8月6日だった。
広島を出てから25年、ほぼ欠かしていない8時15分の黙祷。
今年もつつがなくやり遂げた。

九州に住む私の周りには、この黙祷を大切にする人はほとんどいない。

20年くらい前のことだか、地方紙に投稿したことがある。
「広島・長崎の原爆記念日はおろか、終戦記念日さえ知らない人がいる。平和教育が足りていない」
こんな趣旨で投稿し、しっかりと掲載された。
だか、新聞社からのお礼の手紙には「こちらの地方でも戦争孤児のエピソードは受け継がれている」と小さな反論を受けた。

どちらが偉いわけでもない。
ただ、めんどくさそうに原爆ドームの前で集合写真を撮影する修学旅行生と、海外からわざわざ「最初の被爆地」を見学にくる外国人を比べると、いかに日本人がわが国の歴史に関心がないのがよくわかる。

改めてこの話を思い出し、その顛末を考えるきっかけを与えてくれた家族に感謝したい。
こんな戦争怪談をしながらも、原爆や戦争について家族と話すことも、被爆3世という肩書をもつ私の使命なのだろう。

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