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綴る友達 / 短歌を詠む人



綴る友だちがいる。

彼女は高校の友だちで、こつこつと短歌を書き続けている。その友達に、今回Kimioのキャッチコピーや店舗紹介をお願いした。

彼女とはあまりこまめに連絡をとることもなく、卒業から10年ほど経った。当時から、付かず離れずほどほどの距離感で、話したいときは丁寧に話せる、そんな友人と思っている。

あまり人前に出るタイプでもないけれど、芯の強さがあって「そんな風に思ってたんだ」とびっくりすることもある。また、きちんと自分を歩んでいる姿が格好良いなと思うこともしばしばある。あと、彼女は嘘がつけないと思う。

キャッチコピーの依頼で電話していたときに、「最近ようやく自分がすごく陰湿な奴だって気付いたし、自覚してるんだよね〜」と言ったら、「誰でも陰湿な部分はあるよ」と返された。彼女はとても賢いので、物事を普遍的に置き換えて広い視野からの優しい言葉だった。

自意識過剰な私は「そんなことないよ」を期待していたので完全に動揺した。「…っ誰でも陰湿さはあるよね〜!!うふふ!」なんてオウム返ししか出来なかったことはまだ彼女に伝えていない。
こんな感じで、具体から抽象へ素早く視野を広げて、端的に自らの意思と優しさを言葉に乗せられる人なのである。具体や目の前のことに固執して、結局迷子になってしまうわたしはそんな彼女の言葉感覚が羨ましい。


そんな彼女が、短歌をこつこつと書いているようだ。

それを初めて目にしたのは彼女がSNSで自分の短歌を挙げていたときだと思う。そのときは、もうお互い社会人になった頃だっただろうか。
あまり自分の表現を表に出すタイプではない(と私は思っていた)彼女が、こうやって表に出すものってどんな想いなのだろうと期待したし、短歌を随分信じているんだなあと思った。彼女に信頼されている短歌に、興味が湧いた。

読んでみると、短い言葉で、その情景や想いが甦る。
聞き慣れた言葉でも、組み合わせやその息遣いで、深く深く自分の中に広がっていったのが分かった。

単純に、沁みた。この言葉がどうとか、このリズムがどうとか、そんなことは私には分からないけど「短歌って良いものなんだなあ」と思させてくれるには充分だった。

まだそのとき、私は小学校の教員をしていたので学校の図書館でいろんな詩人の本を借りて読むようになった。他の教員がクラスのために図鑑とかを借りている中、そういったものと合わせて詩の本をたくさん借りた。私のクラスの窓側には詩人の本が並んだ。

回りくどくなってしまう私だから、端的に伝える難しさがよくよく分かる。

工房建設にあたり、お店のことをもっと端的に伝えたいと思った。所謂キャッチコピーを作るぞ!と意気込んで、自分でもあれこれ考えてみたけど、やっぱり回りくどくて押し付けがましかった。想いが重くて、押し付けがましいと最近よく自省する。

そんなとき彼女が浮かび、客観的にうちのお店や私がどう見えているのか、端的に言い表してもらおうと思った。依頼したら快諾。これが東京のキャリアウーマンか…。格好良いぜ。むしろ「ありがとう」と言われて拍子抜けてしまった。


さらりと核心に迫る彼女の言葉だからこそ、信じられる。「さらり」には試行錯誤があるんだろうけど、それを感じさせないで「さらり」としているところが良いのだ。そしてその言葉は、お客さんに対しても、誤魔化しをしたくないなと強く思ううちのお店にぴったりだと思った。たぶん私がズルして運営していたら、それも容赦なく言葉にされそうだ。

綴る友達が、言葉を信じていて、私はその言葉を信じている。
どんな言葉が来るのか、とても楽しみだ。

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