働くということ。

従姉が一昨年亡くなった。まだ40歳という若さだった。悔しくて悲しくて無念で仕方なかった。従妹は20代から親の介護、30代の頃からガンを患っていて、ようやく社会復帰が出来る手前だった。亡くなる直前、彼女はたくさんの管に繋がれて弱々しい口調でこう語っていた。「もう一度就活してたのに、ああ私、ようやく働けるって思ったのに」。彼女は、働くという人間として当たり前だったはずの行為を、取り上げられたのだ。

同じ年、従姉が亡くなる半年ほど前に、祖父も亡くなった。孫と祖父が同じ年に亡くなるなんて本当に神様は辛辣だと思った。祖父は享年99歳の大往生だった。祖父の葬式の時、孫たちからの寄せ書きを集めた挨拶文には、こう書かれていた。「祖父は戦争を経験し、帰って来てからは農業と林業、土木に勤しみ、80歳を過ぎてからも田畑に立ち続けました。引退してからも、今度は10年近く祖母に寄り添い、その介護を続けました。本当に働き者の祖父でした。最後に贈る言葉は、「お疲れ様」、この言葉に尽きると思います」。私は東京の孫だったのでこの寄せ書きには参加できず、出来上がった挨拶文を見て、私は祖父母のことを何も知らずに生きて来てしまったのだなぁ、と後悔した。

働きたくても働けない人々もいる。働いて働いて人生を全うする人もいる。みんな、何かを守りたくて働いている。その『何か』は、何でもいいのだと思う。家族、生活、立場、夢、金。色んな目的がある。ただ一つ共通していることは、『生きるために働いている』ということだ。自分の生きがいのために、仕事をしているということだ。

私はこんな生活なので非正規雇用だ。アルバイトで基本的にはフルタイム、稽古や本番の期間だけシフトを融通してもらい、働いている。私が非正規雇用なのは、自分の夢のため、目標のため、それらを追いながらも生活を続けるためだ。私は今、メディア系の部署でシナリオを書く仕事をしているのだが、そこで働き始めてようやく、「働くってこういうことかぁ」と分かって来た気がする。以前まで勤めていたバイト先は、その仕事に対する目標がなかった。目的もなかった。ただただ時給のために電話を取りパソコンに向かい、本当に生活費のためだけに通っていた。それがどれだけ不毛で苦しいことなのか、最近になってようやくわかった。今のバイトは、目的と目標がある。何のための仕事で、自分が今やっている作業が今後どのような形になってどのように社会に還元されていくのか、そのビジョンが明確で、かつ、それが楽しいと思える。そんなの非正規雇用の楽観さだ、と言われてしまえばそこまでだが、生きるために働いているのか働くために生きているのか分からなくなってしまうのは個人的にとてもつまらない。

だが私の考え方は、まさに現代的な、若者の考え方なのだろうと思う。仕事を選ぶ権利はあるという。それは確かだ。でも私は同時に、仕事に選ばれる人間もいると思う。父から「とにかく一つの仕事は三年続けなさい。三年続ければ、ようやく新人じゃなくなるから」と言われたことがある。これは社会人として一般的によく言われる言葉であって、仕事ができるようになるまでの期間、という意味合いだと思うのだが、その仕事が本当に楽しいかつまらないのか見極めるにも、少なくともそのくらいかかると思う。終身雇用の時代は終わったという。就職から定年まで一つの会社で勤め上げることは古いという。だが先人たちは、現代人には到底我慢のならないことを普通にやってのけて来た。彼らにとっての当たり前は、その水準が高い。本当にすごいと思う。彼らは仕事に楽しさややりがいを見出せながら働けたのだろか。現代人たちは何かを守るために働いているのだろうか。

働くということ。それは、継続させることができるかどうかだと思う。働くためのモチベーションを、その先に描くものを、継続して見つめ続けることができるのか。非正規雇用の戯言程度に受け取ってくれればいいが、本当に継続は力になる。

働くなら従姉の分まで、祖父のように働かなければと思う。最後には「お疲れ様」と言ってもらえるように。

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