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願い通りの死に方をした人

今日、春分の日は春のお彼岸。
ご先祖様を思う日です。

そして、そろそろお花見ですね。

ところで、桜が満開を過ぎて、柔らかな春風にハラハラと薄紅の花びらを散らす姿に美しさと儚さを感じるのは、とても日本人的な感性だそうです。

華やかな桜ですが、なぜか「死」を連想させます。
そのせいなのか、この時期になると決まって思い出すのが、西行法師のこの和歌。

願わくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月のころ

西行法師

桜が大好きで「死ぬなら満開の桜の下で」と、歌にまで詠んだ西行法師。 
彼はその望み通りに桜咲く春に生涯を閉じたそうです。
 
今時風に言うならば、この歌は、西行にとってのアファメーションだったかもしれません。

西行は、自分の「死の時」を想い、どのようにそれを迎えたいかをイメージして、和歌に残しました。
 
人生の究極のゴール設定をしたとも言えるし、そのように生きて死ぬ自分としての自己イメージを思い描いていたとも言えます。

 
「生」は、ふだんはあまりに当たり前すぎて、意識しにくいものです。
生きている、と言うのは、わたしたちのこの世での存在の大前提ですから

でも、例えば・・・
 
大病をする
交通事故にあう
大きな災害に見舞われる

 
そんな時、わたしたちは、生々しい自分事として命の危機を感じ、「死」というものを目の前に突き付けられます。
 
生の対極としての死。
それを鮮烈に意識した時に、それまでは当然のものと思い、意識すらせずにいた自分の「生」が生々しいものとして目の前に立ち現れてきます。

どんな生き方をしたいのか。
どんな自分でありたいのか。

 
それは、言い換えるならば、
どんな死に方をしたいのか、 
と言うことです。
 
たとえば西行ならば、「春の桜の下で死ぬ自分」を生きるということ。
 
 
世界的なロングセラー本であるコヴィー博士の「7つの習慣」を読まれた方も多いと思いますが、コヴィー博士は第2の習慣の「終わりを思い描くことから始める」で、自分の葬儀をイメージすることを提案しています。
 
自分の葬儀にどんな人たちが集まり、その人たちが自分のことをどのように語るのか、どんな弔辞を述べるのか。
それを想像して書き出します。
 
どんな人として世を去るか。

それは、文字通り、人生の究極のゴールです。

今この瞬間も、わたしたちは誰もが、死という人生のゴールに向かって、一歩一歩、歩みを進めています。
 
あなたはどこに向かっているでしょう?
 
行く先を知っていますか?
そこへ行くための地図を持っていますか?
道に迷っていませんか?
行く先を決めず、自覚も無しに、流されるままに歩いてはいませんか?

 
命を終える時に、人は、自分の歩んで来た道を振り返ると言われます。
 
ああ、わたし、よく頑張ったな。
いい人生だったな。
ありがとう。
 
別れの時に、心の底からそう思って、充ち足りて去って行く。
それがわたしの究極のゴール。
目指す人生の姿です。

そのために、今日を、今この時をどう生きるか?

それが「死」を心に留め、生を全うするということ。
そう思うと、死ぬことは怖いことではなくなるから不思議です。

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日々を満たされて生きるために、いまわたしから始めるささやかな幸せ活動。

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