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地元がない

僕には「地元」がない。

北海道で生まれ、父親の仕事の都合で道内各地を転々とし、6歳の時、東京にやってきた。それからも新宿区、足立区、豊島区など23区内も転々とした。大人になってからは、千葉県や埼玉県にも住んだ。

6年生の3学期、新宿区から足立区の小学校に転校した。新宿区の小学校で卒業アルバムの撮影も全部終わっているのに。終業式間際には校長室で、校長先生、担任、親、僕で、転校をめぐる話し合いがもたれたが多勢に無勢、「早いうちに新しい友達を作ったほうがいい」という理由で、泣きじゃくる僕はいやいや転校させられた。その後、中学1年生でいじめに遭うので、この選択は今でも間違っていると思っているが。

中学を卒業して高校に入ったが、この高校に入った中学の同級生がたまたま1人もいなかった。高校生活は友達作りから入った。必死だった。たまたま同級生がバンドを組みたいと宣言したので、「おっ」と思い、ヌルッとメンバーになった。パートはベースだ。

それまでベースという楽器の存在すら知らなかった僕は、家に帰ってすぐ「ベースを買って」とせがむ。両親はびっくりしていたが、「すぐに辞めるなよ」という言葉とともにお金をくれた。27歳までメジャーデビューを夢見て活動することになるので、「すぐには」辞めなかった。むしろ、その時のロック魂は人生の標になっている。偉いな俺。

高校1年の1学期、足立区から豊島区に引っ越した。これまた親の仕事の都合。さすがに高校の転校はなかったが、「自転車で20分」から「電車で1時間半」の通学が始まった。3年生になって、学校から自転車で15分ほどの場所にアパートを借りた。高校3年生にして一人暮らし。ワクワクだった。でも、週4日の居酒屋のバイトのために池袋に通う「逆転現象」も発生した。バイト先にめっちゃ可愛い子が好きで辞める理由がなかったから。

「お金がないから」という理由で大学行きを両親に拒否された僕は就職活動もせず、卒業後、フリーターをしながらバンド活動を継続する。高校の同級生と組んだバンドは1年ほどで「方向性の違い」という、デビュー40年のユニットも使うベッタベタな理由で解散し、その後、いくつものバイトとバンドを転々する。

話が脱線した。

僕は長くても同じ土地に5年ほどしか住んだことがない。土地を離れると、よほどのことがない限り、その土地の友達とは疎遠になる。小学校・中学校の人達とは誰とも連絡を取っていないし、高校の友達は3人しか今でも会っていない。

30代半ばになって、「地元がある人」が羨ましくなった。東京では標準語だけど、地元に帰ったり、地元の友達と電話で話したりするときに出る方言、東京で地元への愛を熱く熱く語る人、飛行機に乗って友人の地元へ訪れたときに、紹介してくれる友人また友人。みんな「地元がある」からできる。自慢できる、紹介できる友人が地元にいる、羨ましい。

僕にはそれがない。どうしよう。よし、ないなら作ろう。この1年、仕事とは全く関係ない文脈で地方に足を運んだ。京都、塩尻、福岡、今治。観光ではなく、大好きな「あの人」に会うためだけに足を運んだ。どの街も「地元にしたい」という思える環境や魅力的な人たちだった。

2019年8月、長崎県の壱岐島に降り立った。大好きな友人とともに、大尊敬する友人に会いに行くためだ。

元々、東京で働いたが壱岐に魅せられ移住し、地元の観光名所イルカパークのリニューアルに携わり、たまに東京に行く生活を送っている。

1泊2日の行程で壱岐を案内してもらう中で、あらためて感じたこと。それは「地元はいくつあってもいいじゃん」「やっぱり人なんだ」だった。当たり前だけど、それしかない。

案内してもらう中で、壱岐の魅力的な人に出会えた。東京など首都圏から移住して生活している人にもたくさん出会えた。中には8年ほど前までツイッターでフォローしている人と偶然出会うこともできた。その時は全く分からなかったが、SNSのプロフを見て「みなかみ観光協会」という文章で思い出した。ご本人にはまだ知らせてないのので、知ったらきっとビックリするだろう。(当時、僕の両親が群馬県みなかみ町の旅館で住み込みで働いていたので、何となくフォローしていた)

僕は、その地域で5人の魅力的な人に出会えたら、勝手に「地元」とすることにしました。いまのところ、今治、福岡、壱岐、塩尻が僕の「地元」です。

壱岐を「地元」にしたい人、僕と一緒に壱岐に行きましょう!もちろん、今治、福岡、塩尻も!

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