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無我無心の境地

 日本列島の梅雨明けより一足早く明るい兆しが見え始めた中日。とりわけ阪神古沢を「あと一人」から沈め、翌日には若生をたった19球でノックアウトした打線の好調ぶりには目を見張るものがある。この勢いで一気にペナントレースの主導権を奪いたいところだったが、30日の阪神戦、2日のヤクルト戦と2試合つづけての雨天中止は文字通り水をさされた感がある。

 何しろ “打線は水もの” という言い伝えがあるくらいだから、調子がいい時にできるだけ試合を消化しておきたかった。

「阪神は喜んでいるだろうな。今日やれば、江夏でも谷村でも勢いづいたウチの打線を抑えることはまず不可能だったでしょう」。30日の試合中止が決まったとき、近藤コーチが雨空を見上げながら悔しがったのも当然であろう。

 期せずして3日間の休養を得た中日。雨上がりの神宮球場に立ちはだかるのは難敵の浅野啓司だ。簡単には打ち崩せない投手だが、打線の好調が果たして本物かどうか、見定めるには格好の相手といえる。対する中日は6月2完封と勢いに乗る三沢をマウンドに送った。

 好投手同士の投げ合いは想定どおり1点を争う展開になった。5回を終えてスコアは1対1。ヤクルト3安打、中日4安打と互いに集中打が出るようなムードはない。

 ところでこのカード、試合の行方とは別のところで静かに火花を散らす選手たちがいた。ヤクルトの3番若松勉と中日不動の正捕手・木俣達彦である。

 2年前に首位打者をとった若松は今年も春先から打ちまくり、3割中盤の打率を維持。5月が終わった段階で3割7分台と圧倒的な数字を誇り、首位打者レースを独走していた。しかし6月に入り、ややペースを落としたところに台頭してきたのが木俣だった。

 同月半ばまでは2分近い差があったが、“一日二善” のペースでヒットを量産した木俣が23日には遂に逆転。そこから今日に至るまで一度も首位打者の座を譲り渡していないどころか、その差はむしろ広がりつつある。

 木俣といえばプロ入り10年間、首位打者とは縁のなかった選手だ。それどころか一度も3割さえ打ったことがなく、シーズン途中にランキングのトップに躍り出るのももちろん初体験。いったいなにがここまで変わったのか。木俣いわく「体質改善」の効果らしい。

「医者に言われてね。昨年の暮れから酸性食品を控え、アルカリ性食品を食べるように心がけたんだ。実に体の調子がいい」

 肉を食べたら野菜を多く採る。生水も飲まない。その甲斐あって昨年80キロあった体重は75キロに落ち、見た目に分かるほどスマートになった。また捕手の職業病ともいえる痔の手術をオフにおこない、試合が雨で流れた30日は虫歯のある奥歯を抜いたという。

「痔も歯も悪ければ迷わず取る」、そして「ゲーム前の練習は人一倍がんばる。ウェーティングサークルにいるときは考える。打席に入ったら結果を考えずにいく」。そうした心がけの積み重ねが好調の秘訣だという。

 この日も打線を牽引したのは木俣のバットだった。まず5回、遊撃に内野安打のあと谷沢の二塁打で必死に走って同点のホームイン。6回はマーチンの犠飛で勝ち越した直後、右前にポトリと落とす技ありのタイムリーで貴重な追加点を叩き出すと、8回にはダメ押しの7号アーチをレフトスタンドに運び、今季七度目の3安打を記録した。

 4打数1安打で数字を下げた若松をよそに、なんと木俣の打率は3割6分6厘にまで上昇。ヒーローインタビューではアナウンサーの冷やかしに謙遜していると、スタンドのファンから「リーディングヒッター!」と激励の声援が飛んだ。

「首位打者なんて僕のガラじゃないし考えない。これからも “打とう” という気持ちを捨てて “打てない” という軽い気持ちでいく」ーー無我無心の境地をゆく木俣であった。

ヤ4ー7中
(1974.7.3)

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