お箸から始める前向きニヒリズム?

お箸はたぶん中国からアジアに……他はよく知らないが東アジアに広まったことはたしかだ。最近はアメリカでも常用するようだが、そのずっと前、黒船が来航したとき、彼らにお箸は見えていなかった。というより、お箸を二本の棒として認識していた。
なぜかというと、この二本の棒と、他の棒の違いは、単なる材質や形状の違いではないからだ。この二本の棒は、それでつまんだりはさんだりして食事に使うという文化と歴史をひっくるめて、初めて箸になる。ゆえに、その文化と歴史を知らない当時のアメリカ人にとって、二本の棒は二本の棒としか認識できなかったのだ。

さて、これは認識が新たなものを作るという証拠になる。たとえば看板もそうだ。私が通学のために乗るバスは、いつもBOOKOFFの前を通る。BOOKOFFの看板は、BOOKOFFを知らない者にとって、なにかの店の看板になる。店、という概念を知らない……少数部族とかにとっては、変な柄の看板になる。看板を知らない原始人にとっては、変な柄の板になる。BOOKOFFのロゴ?が描かれた物しかない世界で暮らす人にとっては、板になるし、板状の物しかない世界で暮らす人にとっては、もはやただの物になる。物、という言葉を知らない人たちにとっては、もはや世界には"なにか"しかない。

このように、我々は我々の認識次第で見えない物を見れるようになる。それはなにもかもが本質的には存在しないからかもしれない。
なら、見たくないものが見えてしまったら、目を閉じればいいし、見たいものがあれば目を凝らせばいい。同じものを見ていなければ他人と会話が噛み合わなかったりするだろうが、本当に同じ認識の世界で誰かと生きることは不可能だろう。

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