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『偽訳』、やがてバベルの塔は―

 私は、英語の本も読む。日本語母語話者であるため、英語は後天的に得た第二言語である。それを駆使して、泣いたり笑ったりできるようになったことが、自分でも不思議で仕方ない。
 本当に言葉は不思議。話し言葉も、書き言葉も。特に書き言葉の翻訳という行為は、 謎。人間のすなること故、そうそうこれが意味するところが大きく乖離することはないと思う。ただ各言語の祖先・親戚関係、系統、文字種のかけ離れ方などを考え合わせて、どの言語同士でもそれ程スムーズに言語間を行き来できるとは限らないのは、自明の理。そして言葉は時間の友ではない。空間だけでなく、時と共に変化する。
 書き言葉は嘘をつく。勿論喋り言葉もだが、その場限りか、記憶頼りで、時間に耐えられない(録音もあるが、それは近代になってからのこと)。けれども書き言葉の嘘は残る。そのこと、またその周縁で起こることについて歴史や世界各地を舞台にした原稿用紙200枚程度の小編物を発表した。長崎、アテネ、ベルリンなど、時代も場所をもまたいだ話になっている。

 翻訳という行為を信じているかいないかと問われれば、凄い技だと思うが、100%の信頼はない、と答える。そして私には到底無理な役だ。
 英語で聞いたことを日本語話者に話す時、既に日本語に変換して伝えるが、そこにはもう原語の影は薄い。英語では何て言っていたっけな、でも、こういう内容だったのは確かだ――自分の頭の中で起こっていることはよく分かっていない。これは翻訳ではなく、通訳という分野の話になるが、いずれにしても言語の変換は、人間の叡智の粋を集めた高等技術だ。
 しかし「バベルの塔」は、人が人たる所以。言語の行き来は、近似値をせめぎ合う。分かる感覚を求めて。言語間の起源、血縁関係、文字の違い、全てを乗り越えて。そして嘘もつく――。

スマホの画面でアプリ翻訳の文字を見せ合うことが「会話」になるとしても。

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