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生方美久という脚本家

初めて「脚本家」という単語を意識したのはいつだろう。
記憶があるのは大学1年生のとき。超田舎から田舎に出てきた私は同県の同級生からそのフレーズを聞いた。
「〇〇という脚本家さんのドラマ好きなんだよね」
私は、ドラマや映画を見るときに脚本家で選んだことはなく、
「はぁそういう目線で見るんだ、かっこいいな」
そんな風に感じた。
それから数十年。脚本家という言葉を特段意識することなく、ただ「〇〇という脚本家さんのドラマ好きなんだ」というセリフが格好いい感じがして、使っているだけだった。
好きな脚本家は?と突っ込んで聞かれることがあれば、
「中園ミホ」「クドカン」「坂本裕二」(さん省略)の名前を出しておけば、それなりに「知ってる」って返事がくることを知っていて、
『そうそう私も好き』と話が繋がるキーワードとして脚本家の名前を出していたと思う。
私が初めて買ったシナリオブックは「anego」だったと思う。中園ミホさんのもので今思えばシナリオブックではなくただのドラマのノベライズ版だったようにも思う。私と「脚本家」はそういう距離感だった。

そして、やっとタイトル回収。
生方美久という脚本家。

知ったのは「silent」というドラマ。
何やら賞をとってデビューが決まったという異例の~、枕詞に飛びついた。
そして、私は脚本家というものがいかに稀有な存在か、初めて知ることになる。
何より彼女は産婦人科のNSをしながら脚本家を目指し、いつ諦めよういつ諦めようと思いながら、フジテレビのヤングシナリオ大賞を獲ったというのだから、なんとドラマ性のあるデビューの仕方だなと思ったものだ。
私はずっと病院で勤務していたので、かたわらで何かをできるほど病院勤務は肉体的にも精神的にも大変な仕事だと理解しているつもり。
仕事でおきたことを家でも、寝る前、歯磨き、どんなときでもフラッシュバックする。
そして答えがない問いを頭の中で反芻するのだ。
今でも病院に勤めていた頃に戻りたいと思うことがあるほど、ドラマチックで病みつきになるようなスリリングな毎日を送っていた。

生方美久さんが描いた「踊り場」。
あえて「描いた」としたのは絵が浮かぶような脚本だったから。
ああ、これだ。

私は言語化できない思いを言語化するのではなく、映像化して消化したい、そう思っていたんだと自分の中にある本能みたいなものに気づいた。
高校生のときに抱いた夢「物書きになりたい」
だけど、夢は別の夢に書き換えることで、自分の夢の幕引きをした。

今思えばそれは計画であって、夢ではなかったのかもしれない。
職業ではなく、どんな人間になりたいか、と将来像をぼやかすことで、何とか夢を追いかける自分、夢を叶える自分の体裁を作っていたのかもしれない。

そして、生方美久さんの脚本は、今までのドラマとは違って、
やたら回想も多いし、
セリフも長いし、
いちいち曖昧な返答が多いし、
ちょっとこしゃくというか。
良い言い方をすれば、知性を感じる言葉だし。
悪い言い方をすれば、なんかひねくれているな、とも思うのだ。
悪い人がいない分、人間らしいとも言えるが、
そうなるとドラマとして成立しないのではないかとも思うのだが、
ちゃんとドラマになっているところ。
それが生方美久さんの脚本だと思う。
「海のはじまり」というドラマは、命の現場で働いていた生方さんならではのテーマだと思うし、亡くなった人は回想でしか出てこないが、ちゃんと存在感があるドラマで、やっぱり私が描きたいものの理想のようにも感じる。
ドラマを見て「面白い」じゃなく、書いた人はどんな人だろう、ってそう思わせるドラマ。
それが生方美久さんの脚本だと思う。

脚本家という仕事を目指すのではなく、
脚本家という生き方を私は夢にしようと思う。
自分の消化できないものを言葉ではなく、映像作品で消化させる。
なので、ちゃんと映像化できるまで、夢はかなえられないだろう。
夢を追い続ける。
そういう生き方が40歳になった私のリスタートにしたいと思う。

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