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最近あった、ちょっといいこと

 最近あった、ちょっといいことを書きたいと思います。

 それは厳密に言うと私自身に起こったことではなくて、たまたま目にしたある光景によって私が(勝手に)幸せな気持ちになった、ということなのですが。

 その日私は求職者向けのセミナーに向かっていました。服装は自由だったのでまたしても白シャツに濃紺のジーンズを履いて。

 着るものが固定できると楽ですね。頭も目も疲れない。場所を選ばない服装を心掛けていれば、きっと失礼も少ないはず(ジーンズは場所によってはだめかもしれないけれど…)。

 もちろんそれだけだと寒いので上からダウンウェアを着ました。またしてもアウトドアブランドのもの。3年くらい前に半額で買ったものを大切に着ています。

 私が白シャツを着ることになった経緯はこちらです↓

 私は自動車を持っていません。なので唯一所有しているオートバイ(バイク?単車?わからない)に乗って向かっていました。交通費を節約したかったから…。

 天気は冬の曇り空。時刻は昼過ぎ。なんとなく街がグレーに染まっていて、向かっている場所で催されるものがものなだけに、私の気持ちもなんとなく沈み気味だったと思います。

 自分で「行く」と決めたことですが、本当ならもっと違うことに時間を使いたいなぁと思っていることもまた事実。グローブを通して伝わる風の冷たさがジンジンと痛い。暖冬っていうけれど、冬のオートバイはやっぱり寒い。こういうときばかりは自動車が羨ましくなります。

 交差点に差し掛かり、赤信号を確認した私は何台かの自動車のうしろでとまりました。目の前の窓ガラスから見える空は相変わらずグレー。アスファルトは光沢のある黒。前の車のテールランプの赤がアクセントみたいに光っています。

 私は左折のレーンに入っていたので、私はすぐ横の歩道を見るともなく見ていました。信号はさっき変わったばかり、当分の間赤信号だとわかっていたので。

 すると前方に犬の散歩をしているダウンジャケットを着た女性が歩いていました。彼女はリードを持って歩いているのですが、ケン(仮名です。犬って呼び続けるのはなんとなく嫌…)は好奇心旺盛なのか、目についたものに向かって勢いよく走っていこうとします。風に舞うチラシとか転がっていく空き缶とか。まっすぐ歩いてくれないし、彼女を待ってもくれないみたいです。

 ケンはそれなりに大きいので力があるらしく(知識がないから犬種はわからない)ほとんど彼女はあっちこっちに引っ張られるような形で歩いています。リードを握った右腕はほとんど伸び切っているくらい。

 私からは彼女のうしろ姿しか見えない上に距離があるので表情はわかりませんが、なんとなく

「待って待って!」「そっちじゃないよ!」

 と言っているようにも見えます(でもケンは空き缶に夢中…)。

 彼女とケンはケンを先頭にして進んでいきます。彼女はケンに引っ張られながら着いていく。私はそれを見ながら信号が変わるのを待っています。

 するといきなりケンが今までにないくらいのスピードで走ろうとしたんです。何かものすごく気になるものを見つけたんでしょうか。彼女はまた「ちょっと待って!」という風にリードを握りながらほとんど走るような形で着いていきます。

 彼らが向かった先は有人のガソリンスタンド。自動車は1台も停まっておらずガラガラでした。そしてケンが立ったまま寄りかかるようにして捕まえたのは、そのガソリンスタンドにいる若い男性店員さんでした。

 ケンに捕まえられた店員さんは(たぶん新しい綺麗な)タオルで勢いよくケンの全身を拭いていきます。「どうだー、気持ちいいかー?」というように。

 その場に追いついた彼女は何やら店員さんに何度も頭を下げて謝っているみたいでした。「すみません!すみません!」「やめなさい、ケン!」というように。

 でもケンは彼から離れようとしません。彼女が何度かリードを引っ張っても抵抗して前足で彼に掴まります。

 そして店員さんは「いいんです!いいんです!」と言いながら、右手に持ったタオルと何も持っていない左手でケンを撫でています。

 声は聞こえないけれど、私にはそう言っているように見えます。

 ケンは彼の膝に前足で掴まって、彼に撫でられています。上を向いているので、彼の顔を見つめているのかもしれません。もうその頃には彼女はリードを引っ張るのをやめています。謝ってはいるみたいだけど、そんなに深刻な感じがしない。

「もう信号なんか変わらなくていい」と思いました。

 ずっと見ていたい。彼女は相変わらず謝っているし、店員さんはそれに対して「いいんですよ」と言い続けているし、ケンはふたりに甘え続けている。

 冬のガソリンスタンドの仕事は寒くて辛いものだと思います。彼はユニフォームの上からダウンジャケットも着ていないし、たぶんそういう規則があるんでしょう、私や彼女よりずっと寒そうです。

 それに彼女は「犬の散歩をしている」人です。「給油に来た人」でもなければ「自動車に乗ってきた人」ですらありません。つまりガソリンスタンドにとってはお客様ではない。愛想を振りまく必要もなければ、相手をする必要も(たぶん)ないはずです。

 でも彼はそうしなかったんですね。ケンを迎えてくれたんです。もしかしたら彼にとってのケンや彼女はお客様なのかもしれません。

 信号が憎いところで青に変わり、少しずつ前の自動車が動き出します。私もゆっくりとアクセルを開けながら前に進んでいきます。それにつれて私は彼らに近づいていきます。声は聞こえないけれど、表情は見える距離。私は巻き込み確認をする直前、彼らの表情を見ることができました。

 3人とも笑っていました。やっぱり。彼は笑顔でケンを撫でていましたし、彼女は顔を上げて何かを言いながら笑っていました。ケンは目を細めて気持ち良さそうに笑っていました(笑っていると言っていいと思う)。

 近くで見ても彼は「いいんですよ、いいんですよ」と言っているように見えましたし、彼女は(笑顔だったけど)「すみません、すみません」と言っているように見えました。

 ケンは…彼女には「この人はいいって言ってるじゃん」とちょっとわがままを言って困らせ、彼には「ねー、いいよねー」と甘えているみたいに見えました。

 そんな光景はすぐに私の背後に残され、どんどん遠ざかっていきます。

 この世界も悪くないなと思いました(何様だ)。あったかいことってあるな、とも思いました。

 私は視覚において共感覚性はあまりないので、彼らは街のグレーに染まったままに見えましたが、人によっては違って見えたかもしれません。春みたいにパステルカラーに見えたかもしれない。今が本当は1月だと知っていたとしても。彼らはまるでよく晴れた日曜日に広い公園で遊んでいる家族みたいだったから。

 身体はさすがに寒かったけど、なんとなくホクホクとした気持ちで私はセミナーに向かうことができました。

 セミナーを終えて帰宅し、コーヒーを淹れるためにお湯を沸かしているときも、私はまだ彼らのことを考えていました。「それにしても良かったなぁ」なんて思いながら。いいことって何度も思い返して味わいたくなりますよね。私だけかな?

 しかし、少ししてから「いや待てよ」と思いました。

 私は犬と一緒に暮らしたことはありませんが、家族に犬がいる人の話を聞いてみると、多くの場合散歩のコースはある程度決まっているそうですね。毎回新しい道を歩くのではなく、だいたいいつも歩いている道を歩くことが多いのだとか。

 彼女たちもそうかはわかりませんが、もしそうだとすると、彼女たちはあのガソリンスタンドの前を何度も通っていることになります。つまり店員さんとは初対面ではなく、何度も会っているはずです。

 それってもう友達なんじゃないですか?

 店員さんの勤務時間はその日のシフトによるでしょうから、毎回会うことはできないのかもしれません。たまたま散歩の時間に勤務していたら会える、くらいのもの。

 それって「離れたところに住んでいる大好きな親戚に久しぶりに会えた」みたいなこと?

 家族。友達。親戚。

 どれが適当なのかはわからないけれど、とにかく、だからこそケンはあんなに急いで走っていったのかもしれない。

「やった、今日はいる!」「会いに来たよ!」と。

 だから彼は「今日も元気だねー!」「綺麗にしてやるからなー」と迎えたのかもしれない。

 だから彼女は「いつもすみません」

 と謝りつつも笑顔だったのかもしれない。

 だから彼は「いいんですよ、僕も会いたかったんですから」

 と言うのかもしれない。声は聞こえなかったから全部想像だけど。

 だったらいいのにな、と思う。私が目にしたあの日あの空間が、とてもあたたかくて幸せなものに見えたことが、全部本当のことであってほしい、と思う。

 そして「笑顔で接客しないといけない」「お客様に失礼があってはいけない」ということばかりを考えていたら、あんなことは起こらなくなるだろうな、とも思ってしまいました。考えなくちゃいけないことではあるんだろうし、全然関係のない私が何を言っても無責任になってしまうかもしれないけれど。

 でも彼はそんな風な気持ちでケンのことを撫でていたとは思えないんです。

 少なくとも全然関係のない私が幸せになれたので、私にとってはとても素敵なことに思えました。彼らも私の想像通り(もっと言えばそれ以上に)幸せだったらいいな、と思いながらこの文章を書きました。

 寒いけど外に出てみるのも悪くないですね、きっかけが何であったとしても。

 どんなことが起こるかなんて、それが起こるまではわからないですから。

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