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「なんでもない人」(伊丹十三監督作『静かな生活』を再見して)

 最近、伊丹十三の映画を見返している。
 以前までは伊丹十三の映画が見たくなった時はその都度近くのTSUTAYAで借りていたが、そのTSUTAYAは少し前に潰れてしまった。
 現在契約しているサブスクでは伊丹の作品が配信されていないため(そもそもネット配信をしていないという話もある)、特に見返したいタイトルはAmazonでブルーレイを買った。
 そんなわけで『静かな生活』を見た。
 大江健三郎の同名小説が原作。興行的には失敗したという。
 大江がノーベル文学賞を受賞した後のタイミングで公開されたが、それが大江の本や大江光(作曲家・大江の息子)のCDが売れる要因であっても、映画がウケる要因ではなかった、と伊丹自身は分析している。
 個人的にはとても好きな映画である。
 「静かな生活」と謳いつつ、劇中そこそこエグい事件が連発して実際まったく“静かな生活”どころではない。そこはかとなく暴力的な臭いがプンプン充満する中、それでいて何故か静謐な雰囲気が全編に漂っている。ラストシーンでの印象的な一言の効果も大きく、最終的には「なるほど、これもひとつの“静かな生活”」と腑に落ちるところも好きだ。
 今回久々に再見した時に「なんで今までこの台詞を覚えてなかったんだろう?」と不思議に思えるくらいに刺さる台詞があった。
 宮本信子の台詞を引用する。

「これは一つの覚悟よ。自分は特別な人間ではない。特別な扱いを受けない。なんでもない人として産まれてきて、なんでもない人として生きて、なんでもない人として死んでゆく。」
「なんでもない人として生きていれば、死ぬ際にも余裕を持ってゼロにかえれると思うの。ほとんどゼロに近いところで生きていた人がゼロにかえるんだからね。低ぅい低ぅ~い平たい階段を一段だけ降りるように。なにげなく死んでいくことができると思うのよ。」

 私が言及するまでもなく、ブルーレイのチャプターでも「なんでもない人」のタイトルでチャプター分けされているくらいなので「この映画といえばコレ!」の有名なシーンなのだろう。
 何故、初見時の自分にこの台詞が刺さらなかったのかを分析するに、その当時は台詞の中で言うところの「特別な人間」になりたかったからだと思う。
 自分なりの言い方で言うと、常に私は「何者か」になりたかった。
 自分には飛び抜けて秀でた能力があるわけではないが、きっと何らかの才能がある。そんな自分が「何者か」になれない筈がない、と。
 しかしいま現在、私が定義するところの「何者」に私はなれていない。
 私なりに努力を重ねてきたつもりだったが、自分程度の存在が何者かになるためにはその努力が圧倒的に足りていないのであろう。
 諦念というつもりは無いのだけれど、最近は「何者か」になることへの執着がだんだん薄れてきている。
 まだまだ八方手を尽くして頑張るつもりではいるが、さいあく最後まで何者にもなれずに一生を終えたとしても「まぁそれでもいいか」と思えるようになってきた。
 そういった気持が果たして呼び寄せたのかは分からないが、そんなタイミングでこの映画を見、正直驚いた。
 これは「特別な人間」「何者か」になれない・なれなかった人たちへの最大限の誠実な励ましである。
 「でもこれを発信したのは“何者か”になれた人たちだよね……?」というモヤモヤは一旦置いといて、私はこの台詞を全面的に支持し、今後の自らの気持の拠り所にしたいと思う。
 人は最期、おっちんだら全てがゼロになる。
 何者にもなれなかった私のスコアは1かせいぜい2というくらいで、階段を少し降りるだけで「ゼロにかえれる」。
 だから特別な人間になって、多くの富や名声を手に入れてしまった人は大変だ。
 死の間際、広大な階段をおそるおそる降りる内に足がガクガク震えてきて『蒲田行進曲』ばりに転げ落ち、ゼロまで落ちきったころには複雑骨折で二度目の死を迎えるのではないだろうか。
 (最近はそういうためのものではないという説も出てきたが)王家の墓として建てられたピラミッド、あれは要するに「こんなに偉大な私が死んでいいワケがない! それでももし死ぬんだとしたら俺がどれだけ偉大であったかを形で残したろ!」というマインドから生まれた実にみっともないシロモノである。
 あんなクソでかい建物、自分のワガママを押し通すために多くの人たちに迷惑をかけてまでブチ建てて良いワケがないんである。将来的にエジプトの観光資源になったのは結果オーライではあるが。
 そう、最後に全てはゼロになる。
 「これは手放したくない」というものがあったとしても、「ハイそれまでヨ」と強制的に“全ロス”させられる。
 男は一般的に「コレクション」という行為が好きな傾向にあると言われており、私にもその癖がある。それでも「最後にはゼロになる」という事実に改めてぶち当たった時、「でもせっかく集めたとしても最後は何らかの形で絶対手放すわけだしな~」とその面でも執着が薄れてきた。
 色即是空。この世の全ては借り物である。
 たまたま何かの都合で「お前こっち来い」と現世に呼ばれ、舞台の上手から明転飛び出しで「ハイどうも~!」と登場。なすべきことをなしたりなさなかったりしている内に警告音と共に赤い照明が点いて強制終了、「どうもありがとうございました~!」と身ひとつでこの世からそそくさと退場するのみである。
 何者かになれなかったとしても、最後の最後は平たい階段を一歩降りるだけ。
 「なんでもない人」の私は、今とても心がラクである。

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