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第十二話 大神の剣

 蛸が人の言葉を話す。黒砂(いさご)は驚きのあまり、海水を呑み込みそうになってしまった。どうやって話しているのか、全く分からない。理解の範疇を超えている。

 すると、大蛸(おおだこ)が、尋ねてもいないのに、疑問に対する答えを述べてきた。

「汝(いまし)たちの心に、直(じか)に伝えておる。そう驚くことはない。心というものは、人以外の生き物にも備わったものゆえ・・・。」

 大蛸の説明に、黒砂は納得せざるを得なかった。それと同時に、激しい感動に襲われていた。神話やおとぎ話の世界では、動物が人の言葉を話す。今までは、作り話だと思っていた。しかし、それが間違いだったと、今日知ったのである。

 ときめく想いを抑えながら、黒砂は、胸中で念じた。

『この光は、一体、何なのでしょう? もしや、あなた様が発しておられるのですか?』

「いや、光のもとは、この剣(つるぎ)じゃ。」

 大蛸は、そう言いながら、一振りの剣を差し出してきた。剣は、三本の触手でしっかりと握られている。大蛸が続ける。

「この剣を、船上の天孫殿下にお渡しいただきたい。」

 言われるがままに、恐る恐る、黒砂が剣を掴(つか)もうとした時、妹の真砂(まさご)の声が届いた。

『あねさま! そのような面妖(めんよう)なもの・・・。受け取れば、禍(わざわい)が及ぶやも・・・。』

 眼前の大蛸による力なのか、真砂の声を海中で聞くとは思わなかった。隣で不安そうな顔を浮かべる真砂本人も、自分の思ったことが、姉に伝わったのを感じ取ったらしい。次は、はっきりと訴えるように語りかけてきた。

『一度戻って、狭野(さの)様に、お伝え致しましょう。これを受け取ったがために、皆様を危うき目に遭わせることとなるやもしれませぬ。この蛸が、物の怪であったなら、如何(いかが)致しまする。』

 真砂の言うことにも一理あると考えた黒砂は、大蛸に改めて問うた。

『蛸よ。この剣を、我らに差し出す道理を申せっ。』

「物の怪と思われても仕方がないわな。いきなり蛸が話しかけてくれば、誰もが、そう思うであろう・・・。」

 若干、寂しそうな気配を醸し出しつつ、大蛸は、剣の説明を始めた。

「この剣は、伊弉諾尊(いざなぎ・のみこと)が、常日頃から佩(は)いていた剣じゃ。」

 唐突に飛び出した大神(おおかみ)の名に、黒砂(いさご)は、またもや海水を呑みそうなってしまった。

『ま・・・まさか・・・。い・・・伊弉諾尊と申さば、あの、国作りの神話に出てくる・・・あの神様か?』

「そのまさかじゃ。汝(いまし)らには、信じられぬやもしれぬが、この地は、伊弉諾尊が禊(みそぎ)をおこなったところ。この剣は、禊の終わりに沈められたものじゃ。」

 黄泉国(よみ・のくに)から戻ってきた伊弉諾尊が、心身を清めるため、禊(みそぎ)をおこなったことは、黒砂も真砂も知っていた。しかし、その地が、ここだったとは露ほどにも知らなかった。

 妹の真砂(まさご)も同じ心境だったようで、黒砂の想いを代弁するかのように驚愕の声を上げた。

『こっ・・・これが伊弉諾尊の剣っ!』

 再び不安そうな目を向けてくる真砂。黒砂は、一度頷くと、大蛸に視線を移した。

『蛸よ。その剣が伊弉諾尊の剣だったとして、それを狭野(さの)様にお渡しせよとは、如何(いか)なることじゃ?』

「畏(おそれ)れ多くも大神の剣・・・。このまま放っておくわけにも参らず・・・。わしが、今日まで守護しておったのよ。いつか、お返し出来る日が来ると信じてな・・・。」

 伊弉諾尊の禊から、今日まで・・・。一体、どれほどの年月が過ぎたのか、黒砂の知り得ぬことではあったが、途方もない時間だったことだけは分かる。

『分かった。汝(いまし)の言の葉、信じよう。』

 黒砂は剣を手に取った。重みが腕にのしかかる。それを見届けると、大蛸は嬉しそうな表情で、海底へと消えていった。蛸の表情など見たことはないが、黒砂は、そう思った。

 剣は託された。もはや長居は無用である。急ぎ、狭野のもとに戻らねばならない。海女(あま)とはいえ、息が続くのにも限界がある。剣をきつく抱きしめ、海上へと戻る黒砂。妹の真砂も、これに続く。二、三度、意識が遠のいていきそうになったが、これを使命感で打ち破る。

 波の上は、相変わらずの激しさで、豪雨が視界を奪う。ほの暗い空間の中で、枯葉のように揺れる狭野たちの船。黒砂は自分を叱咤(しった)しながら、懸命に泳ぎ続けた。

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