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日本傾国中(3)

祖国が傾いている。

日本が滅びようとしている・・・と言っても、過言ではないと思う。

その原因は何で、何が必要なのか。

思うところを語っていきたいと思う。


動物としての人間

前回は、芸能界という特殊な世界について触れた。

では、それ以外の世界を生きる女性たちは、どうだったのか。

映画評論家の小森和子氏のように、自ら進んで服を脱いだ女性もいただろう。

しかし、圧倒的多数の女性は、そんな事はしなかった。

芸妓の話から考えれば、当然の価値観だっただろう。

二君にまみえず・・・という言葉が有るくらい、厳しいモノだった。

と言いつつも、離縁の話が有ったりもするが・・・。

百年前の我が国は、東洋的価値観で社会が形成されていた。

いわゆる「徳」「仁義」「礼儀」「信」「忠義」「孝」「悌」「貞操」「長幼の序」などといった価値観が、判断基準となっていた。

女性たちには「貞操観念」があった。

むやみやたらに服を脱ぐ事など、有り得なかった。

小森氏のように、それが武器になると判断した女性だけが、そんな事をおこなっていた。

それは個人の判断なので、誰も止める事は出来ない。

だが、社会全体は、良くない事として、受け止めていた。

それを言うなら、現代も同じではないかと考える人もいるだろう。

しかし、次元が違う。

百年前の我が国は、良くないという捉え方以外に、もう一つの捉え方が有った。

それは、とても大切な事という観念だ。

前述の「二君にまみえず・・・」もそうだが、大事に守らなければならないという価値観が有った。

芸妓の「惚れた男以外に肌を許してはならない」というのも、そんな価値観から生み出されたモノだろう。

要するに、惚れた者同士なら、一向に、かまわないが、そうでないのであれば、ダメだという風潮なのだ。

吉原の花魁にしても、愛人にしても、妾にしても、一度でも、そのような関係性になったなら、大切にしなければならないという価値観だ。

遊びは許されないといった方が、分かりやすいかもしれない。

男性の場合、遊びたいだけなら、お店に行くという手段もある。

さて、ここまで語ってきて、不思議な事に気付く。

どうして、男性には、そのような店が有り、女性には無いのか。

春を売る女性はいるのに、春を売る男性がいないのは、なぜか。

そういうわけで、ここからは動物としての人間を語っていきたいと思う。

男性が持つ性欲と、女性が持つ性欲には、大きな違いが存在する。

実は、男性の場合、女性に種を植え付けた瞬間から、別の女性に興味が行くようになっている。

すなわち、種を植え付けた瞬間、相手の女性に対する興味は失われてしまうのだ。

これは思考や価値観といった次元の話ではなく、本能の話だ。

多くの人に遺伝子を植え付ける事で、子孫が生き残る確率を上げる作戦と言っても、過言ではない。

当然、女性にも、この本能が備わっている。

ただし、興味を失う瞬間が異なる。

女性の場合、相手の男性との間に子供が出来た瞬間に、そのときは訪れる。

無事に出産出来た時点で、相手の男性は、子供と自分に食料を供給する為の存在となり、興味は失われてしまうのだ。

そして、別の男性へと興味が行くようになってしまう。

だが、子供を産むのは、命がけの事でもある。

出産時に死亡する女性も多かった。

無事に出産する確率が低いのだから、無闇やたらに関係を持つのは、非常に危険な行為と言わざるをえない。

なので、若い時の女性は性欲が低い。

しっかりと男を吟味する為だ。

その代わり、若い時の男性は性欲が高い。

種を植え付けるだけの事であるから、多くの数をこなすべきと判断した為だ。

この時間的な差と、出産の危険度が、春を売る女性は存在するのに、春を売る男性が存在しない理由と言えるだろう。

すなわち、若い男性の性欲のはけ口として、売春婦は誕生したと言える。

そうする事で、社会の秩序を維持し、家族や財産を守ろうとしたのだ。

こう言うと身も蓋もないが、売春婦の女性を人身御供にして、自分たちの可愛い娘たちを守ったとも言えるだろう。

また、売春婦になる女性も、様々な事情があって、そうせざるをえなかった。

こうして、互いの利潤が合致し、このような職業が成立したと思われる。

その証拠というわけではないが、都市と呼ばれる社会が形成されていない地域には、春を売る女性は見当たらない。

南方の原始的社会の人たちに、そんな女性はいない。

そんな事をしなくても生きていけるからだ。

私有財産というモノが曖昧な社会だと、そういった制度を作る必要がないのだと思う。

また、夜這いの風習など、若い男性の性欲を抑制する方法が存在したりもする。

要するに、性に対して、大らかで緩いのだ。

古代の日本も、そんな社会だった。

地域によっては、昭和一桁の頃まで、夜這いの風習が残っていた。

江戸幕府によって、性欲の制御が進められたのだが、その事については、また別の機会に話したいと思う。

さて、逆に、女性の性欲は、歳を取ってから上昇する。

出産の危険性が無くなると、何の心配も要らなくなるからだ。

とにもかくにも、原始時代は、それでも問題は無かった。

しかし、人類は、社会というモノを形成し始めた。

共同体の財産という観念が生まれ、家族の財産という観念が生まれていった。

そうなると、共有出来ないモノが発生する。

他者に譲れないモノが生まれた以上、それを守る為に、家族というモノをしっかりと厳密にする必要が出てくる。

誰の子であるかが重要となってくる。

所属する団体、所属する一族、所属する家族が生み出され、個人というモノが特定されていく。

そして、個人と個人を結ぶ上で、どこに所属するかが、信頼の基準となっていく。

こうして、信頼の上書きが繰り返され、社会に秩序が生み出される。

上記の過程を考える時、原始時代の放漫な性欲行動が、制御されるのは、自明の理と言えるだろう。

この過程で、売春婦も誕生したと考えられる。

また、政治も経済も、性欲の制御があって成り立つと言っても、過言ではないかもしれない。

だからこそ、無闇に関係を持つ事は、良くない事として受け止められていったのだろう。

それと同時に、共有する財産を維持する為に、関係性を持った相手を大事にする事も学んでいったはずだ。

そうでなければ、社会から信頼が失われ、秩序を維持する事が困難であると、経験したからに他ならない。

その経験が、旧約聖書では、不自然な肉の欲を追い求めた、ソドムとゴモラの話として語り継がれたのだろう。

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