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義憤に燃えて 第一章 天狗連その5

 病院を後にして、私は『亀の湯』に向かった。この塞がれた気持ちを打破したいという思いに駆られていた。豊子に生きる喜びを与えるには、まず自分の中から、死への渇望を消しさらなければならない。そのためにはどうするか。答えは大二君にあると思ったのだ。彼ならば、私に生きる活力を与えてくれるはずだ。
 湯屋に赴くと、大二君は快く迎え入れてくれた。他の者も揃い、着替えの真っ最中だった。着物に足袋、お手製の刀を差し、うまく作り上げた丁髷のかつら。これから出しものの練習をするのだという。大二君は、今日も恥ずかしそうな素振りで、鼻の横を掻いた。
「じゃあ、これから一通りやってみるから、七郎は端の方で見てろ。」
 出しものは『森の石松』だという。小池が主役だと、すぐに分かった。眼帯を付けているからだ。皆、その時代の人物になりきって、台詞をそらんじている。にわか劇団だが、その真剣さは見ているだけでも十分に伝わるものだった。時折、おもしろい冗談も入り、私は久しぶりに腹の底から笑った。
 物語も終盤を迎えた頃、私の背後から知らない男の声がした。
「みんな、頑張ってるみたいだね。」
 声の方向に目をやると、そこには、体は痩せているが、それには似つかわしくない大きな頭の男が、番台の傍に立っていた。年齢は私より少し上になるだろうか。まだ若いようだった。背広で身を固めているので、会社員か役人であろうか。
 戸惑う私をそっちのけに、大二君が朗らかな笑顔を見せた。
「照沼先生。今、通しで練習をしているところです。」
「そうですか。もしかして、ちょっと間が悪かったですかね。」
 申し訳なさそうに首を少し傾ける照沼に対し、大二君は顔の前で大きく手を振った。
「いえ、そんなことないですよ。ちょうど森の石松らしさが出ているか見てほしかったところでした。どうでしょう、小池の石松は?」
 照沼と呼ばれた男は、笑顔を湛えたまま靴を脱ぐと、こちらにやってきた。私の存在に気付き、一瞥すると、侠客や旅の者に扮する劇団員の顔を一巡した。
「小池君の石松はいい出来ですよ。皆さんもいい感じに仕上がってますね。形は十分です。あとは演技がどうか、だけですね。」
 褒め言葉と受け取ったのか、皆、一様に嬉しそうな表情を見せた。それから、先ほどの途中から演劇を始めた。一生懸命に台詞を言いながら、決められた動きをこなしていく。その間、照沼と呼ばれた男は、ただ黙って、それを眺めていた。
 最後の場面が終わり、皆、爽快な面持ちで照沼と私に視線を向けてきた。とても楽しそうで、痛快の表現がしっくりくる空気が、『亀の湯』に満ち満ちている。
 口を開いたまま、茫然と見ていた私の傍で、照沼は拍手で花を添えた。
「いやあ、素晴らしい。良かったですよ。森の石松の複雑な心境もちゃんと出てましたし、黒沢君が演じる旅の者のひょうきんな感じも良かったですね。」
 皆が皆、溌剌として、大きな仕事をやり終えた職人のような気風をにじみ出している。それが私には眩しく映った。そして、とても羨ましく思えた。私もここに入れば、生きがいを得ることができるのではないか。そんな気もしてきた。
「ところで、君は新入りなのかい?」
 照沼の問いかけだった。微笑みを絶やさぬまま、問いかけてくるのが、私には不気味に感じられた。
「いえ、違います。お・・・私は、小沼と申しまして、黒沢君の従兄弟です。ちょうど、こちらを訪ねみたところ、出しものの練習をするということだったので、見学させてもらっていました。」
「そうですか。住んでいるところは、この近くなんですか?もしそうなら、あなたも『天狗連』に入りませんか?」
 おもしろそうだとは思っていたが、やるとなると、やはり気恥ずかしい。どうしたものかと思案していると、大二君も照沼の援護を始めた。
「先生も、そう思いますか。私も入れと言ってるんですよ。しかし、なかなかどうして、恥ずかしいみたいでして、それで今日は見学してもらったわけです。どうだ、七郎、おまえも入らないか?」
 強力な助っ人を得たと感じたのか、大二君も少し強引な雰囲気で、私に勧めてきた。やってみてもよいかと思ってはいたものの、見知らぬ男に誘われて入るのが、どうしても納得いかなかった。
「やぶさかではないんですが、その前に、照沼先生でしたっけ、あなたはどういう関係なんですか?そこをはっきりしてくれないと、入る気にはなれません。」
 私の不躾な質問に、大二君は驚きと呆れを交じらせたような顔を見せたが、照沼は全く気に留めていない様子だった。
「確かに、君の言う通りですね。申し訳ありません。」
 そう言うと頭を下げ、改めて私を見つめてきた。
「私は照沼操と申します。前浜小学校の代理教員をやっております。『天狗連』の演技指導をさせてもらってましてね。黒沢君とは、補習学校で知り合いました。そうそう、出身は、ここからそう遠くない前渡です。ですから私も同郷ですので、気兼ねしねえでくろ。」
 最後は方言で親近感を与えようとしたのだろうが、私には不気味にしか思えなかった。ただ、『天狗連』に入るか否かとなると、それは全く関係のないことだった。
「入りろうかなとは思ってますが、やはり演技をするというのが恥ずかしくもあります。」
 正直な感想だった。入ってみようという気持ちと、どうもそういうのは苦手だという意識が、私の中で錯綜していた。次の返答を待っているのか、照沼も大二君も、他の者も皆、無言だ。私はどうしたものかと思いあぐねた挙句、ある妙案に辿り着いた。
「あの・・・演技じゃなく、脚本っていうのはダメでしょうか?私が脚本を書くというのは?」
 じっくり考えたわけではなく、単なる思い付きであったが、大二君は心底嬉しかったのか、聞いたことのない甲高い叫び声を上げて歓迎してくれた。
「それはいい。出しものが少なくて困ってたとこなんだ。いつも同じものじゃ、みんなにも飽きられちゃうからな。頼むよ。」
 照沼も他の者も、それに異論はなく、私は脚本担当として『天狗連』に参加することとなった。

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