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義憤に燃えて 第一章 天狗連その3

「それで、結局は辞めちゃったってわけかい?」
 話の途中で質問してきたのは小池力雄だった。私は溜息を交えて答えた。
「いや、俺は辞めなかった。だが、駒沢の工場だけじゃなく、本所の方もダメになってしまったんだよ。」
「えっ?どうして本所の工場までダメになるんだ?そっちは落合さんの弟さんが経営してたんだろ?弟さんも何か失敗しちゃったのか。」
「ガス会社がやってきて、ガスを止めてしまったんだよ。それで操業できなくなった。確か、仕事始めから幾日も経っていなかったと思う。」
「ちょっと待てよ。本所の方も料金未払いだったのかい?」
 小池の言う通り、普通はそう考えるだろう。しかし、正作氏には何の落ち度もなかった。もしあるとすれば、資本を持たざる者であったということくらいだろう。
「ガス会社の見解では、弟の経営といっても、陰で兄が操っていると認められるので差し止めるというんだ。駒沢工場の職人を使っていることも、正作さんではなく、落合さんの経営と考える要因になってしまっていた。」
 小池だけでなく、他の者も目を丸くして驚いている。大内勝吉が首を傾げながら、唇を尖らせた。
「弟さんは、言いなりだったのか?反論も抵抗もせずに屈したってのかよ。」
「言うべきことは言ったさ。ガス使用料の受領書は正作さん宛てだし、駒沢の職人を使っているのも、失職させては気の毒だと思い、雇い入れたんだってね。正作さんは、問屋の仕切りまで持ち出して主張したけど、ガス会社は聞く耳を持たなかった。」
「そんな馬鹿な話があるか。そんなことは、ちゃんと調べればわかることだろ。嫌がらせとしか思えん。落合兄弟に何か怨みでもあったんじゃないか。」
 大内の憤る姿に、あの頃の私が重なった。私も憤った。資本主義の名のもとにおこなわれる不条理に。搾取するだけの強欲な者たちに。煽り立てるだけの運動家に。
 正作氏の工場が潰れたときも、運動家が解雇者の後ろ盾となり、騒ぎを大きくした。私は鬱憤のあまり、彼らに怒鳴りつけた。「この馬鹿どもっ。そんなに騒ぎたかったら、ガス会社にくいついたらどうだ!」運動家も、職人の皆も驚いて呆気に取られていたのを思い出す。
「落合さんへの怨みというより、金を払えない者は信用できないってことだと思う。正作さんの工場についても、いつ未払いになってもおかしくないと考えて、そうなる前に、ガスを差し止めようとしたんだろうね。こっちの事情を知ろうともしないで。」
 私の話を理解したのか、大内は二、三度頷くと黙りこけてしまった。他の者も信じられないという顔つきだ。誰も信じられないだろう。こんな不条理がまかり通るなど、あってはならないことだからだ。しかし、現実はそれがまかり通る。平気な顔をして人を食いものにする者の何と多いことか。
誰も声を発しようとはせず、眉をひねったり、口を曲げたりと、それぞれ考え込んでいる。私も皆とともに黙然していると、大二君が静かに語り出した。
「最近、本当に〝せちがらい〟世の中になったな。説教強盗だの、豊年飢饉だの。」
 大二君の一言で、ようやく沈黙が破られ、鰐淵が腕を組みながら唸った。
「本当だな。この不況はいつまでつづくんだろうな。」
 落合製菓も不況の影響で廃業となってしまったのだろうか。不況でなければ、落合氏が金の亡者に騙され、奈落の底に落ちることもなかったのだろうか。不況が、山下や警察、ガス会社の連中を非道な存在にしてしまったのだろうか。
 東京の街並みが浮かんだ。活気のある、騒がしい街だ。多くの人が行き交う、華やかな街だ。だが、その華やかな街にも不況の影が見え隠れしていた。これは何が原因なのか、誰のせいでこうなったのか。
 再び大二君が口を開いた。
「浜口首相が緊縮財政をやってる間は、当分、つづくんじゃないか。」
 総理大臣の名前が唐突に出てきたことに、私は当惑してしまった。
「それはどういうことだ?」
「まあ、聞いた話だから、詳しくは説明できんが、デフレ政策というのが原因らしい。それで金の回りが滞っているみたいだ。」
「よくわからんが、要するに、首相が悪いということなのか?」
「さあな。」
 大二君は面倒くさそうに、煙草に火をつけた。皆、不思議そうに大二君を見つめている。彼の口から経済関連の単語が出てきたことに驚いている様子だ。首相の政策が原因なのか、私にはよくわからなかったが、その代わりといっては何だが、東京で見てきたものを皆に語ってやろうと思った。
「俺には原因だとかは、よくわからないけど、東京も酷いことになってるよ。不況は深刻な状態なんだろうね。」
 私の放った言葉に、小池が合いの手を返してきた。
「こっちだけじゃなく、東京にも生活が苦しい人が出てきてるのか?」
「うん。東京にも不況の波は来てる。もしかすると、こっちより酷いかもしれない。ルンペン(浮浪者、乞食)はたくさんいるし、貧民窟(スラム)だってある。その中には、食うために盗みを働くやつだっている。」
「飯を盗まなきゃならないほど、困窮してるっていうのか?」
「そうじゃない。窃盗で捕まれば、警察で飯が食えるだろ?それを狙って盗みを働くんだよ。ただ最近は、警察も滅多なことでは留置しなくなった。連中が考えていることを見抜いてるんだろうな。」
 車座の人々は、想像もできない話を聞かされたせいか、キツネにつままれたようになっている。私は気にせずつづけた。
「小学校なんかには、欠食児童なんてのも珍しくない。弁当を持たせてやれないんだな。それから、銀座だって、華やかなようで、陰もあるんだぜ。」
 銀座という言葉に、さきほどまで固まっていた連中が微かに反応した。長三さんが皆を代表して問いかけてきた。
「金持ち連中にも不況の影響が出てるのかい?」
「そっちの方はどうだろう。金に糸目はつけない感じだったね。不況なんて気にしていないようだったよ。それより、銀座で働いている人たちだよ。本当に惨めなものさ。」
 皆、私の話に釘付けになっているようだ。一様に身を乗り出して聞いている。
「みんな、カフェーって知ってるかい?」
 私の質問を受けて、大二君は愉快痛快と言わんばかりに笑い始めた。
「おいおい、田舎者だからって馬鹿にするなよ。カフェーぐらい知ってるさ。女給が接待してくれる、あれだろ。有名なところで言えば、『ライオン』とか『タイガー』とかだな。ちょっと前に流行った『当世銀座節』の歌詞にも出てくるだろう。〝虎と獅子とが酌に出る〟ってな。」
「まあ、そのカフェーなんだけど、そこで働いてる女給は給料をもらってないって知ってたかい?」
「えっ!なんだそりゃ。それじゃあ、女給さんたちはどうやって、おまんま食ってるんだ?」
 戦慄く大二君を見据え、私は笑みをこぼしながら言った。
「お客からチップをもらうのさ。客が気に入れば、どんどんもらえる仕組みだ。そうなると、女給たちは、自分が一番気に入られるように必死になる。そしてついには体も売るってわけだ。」
 大二君が今までで一番大きな声を放った。
「からだっっ。」
「そうさ。女給のほとんどは、東北の貧しい農家から出てきた奴ばかりでね、少しでも多くの金を家に送らなきゃならない。背に腹は代えられないってことさ。それでもギリギリの生活みたいだったね。」
 顔を青ざめ、迷子になった幼児のような表情で、大二君は私を凝視した。
「そんなことになってるとは知らなかった。だが、どうしておまえは、そこまで知ってるんだ?」
「銀座の染め物屋で働いてたっていうのは、前に話したことがあるから知ってると思うけど、そこにはカフェーの経営者も、お客として来てたんだよ。そこでいろいろと内情を聞いたんだ。」
 長三さんが、少し興奮気味に尋ねてきた。
「ど・・・どうしてカフェーの経営者が染め物屋なんかに・・・。」
「実は女給が着ている衣装は、店が強制的に売りつけてるものでね。衣装を各自で競わせ、四季の催しには高価な揃いの着物を着させてる。」
 長三さんは、開いた口が塞がらないようだった。
「給料出さずに働かせて、衣装まで売りつけてるなんて、犯罪じゃないのかい?警察は何をやってるんだ。」
「警察なんて見て見ぬふりですよ。例え、春を売ってるのがばれても、責任を取らされ、首を切られるのは女給たちです。経営者は痛くも痒くもない。彼女たちが勝手にやってることになってますからね。それだけじゃないですよ、長三さん。カフェーは女給たちに、お出銭と言って、日に幾らと銭を取り立ててるんです。」
 過激な内容のためか、ほとんどの人は聞き入ってしまっている。長三さんにいたっては、『当世銀座節』の一節で唸ってみせた。
「全く信じられんよ。何が〝チップりゃんこ(二十銭)じゃ惚れやせぬ〟だ。歌を作った連中も、そういうことを分かっていながら、歌を作ったってことか・・・。とんだ茶番だね。」
 脱衣所は台詞合わせの場から、私の講演会に様変わりしてしまっていた。そしてそのまま、今日の集会は終わったのだった。
 帰り際、大二君は「もし『天狗連』に入りたくなったら、いつでも声を掛けてくれ。」と言ってくれたが、やはり私は適当に返事してしまった。そのときの大二君の目は、少し寂しそうだった。

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