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宗教音楽ってなんだ?

きくよしエッセイ 2006年11月下旬 菊池嘉雄72歳

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 私は地域に根ざす作曲活動を定年退職後の暇つぶしのひとつにしている。作曲と言ったって独学だし、音楽理論書を見ながら泥縄式でやる作曲だからたいしたことはできない。近頃、新聞に作曲家菊池嘉雄と書かれるようになったが、とても作曲家などと言えるものではなく「作曲家もどき」である。音楽を、聴く側ではなく作る側に立って、ここ十年やっているうちに、日本のクラシック音楽の在り方に対して大きな疑問が湧いてきた。批判や文句つけとしてではなく不明としての疑問である。
 クラシックの合唱団ではアベマリアとミサ曲そしてレクイエムがよく取り上げられる。小規模の合唱団はアベマリアをよく歌う。独唱でも歌う人が多い。近頃は病院コンサート(略して院コン)や県庁ロビーコンサート(略してロビコン)などでもアベマリアを歌う。大規模合唱団になるとヘンデル作曲のメサイアとかモーツアルト作曲のレクイエムだとかベートーベン作曲の荘厳ミサ曲などをやる。管弦楽団も加わって大がかりな演奏をする。そして、そこに集まる聴衆はインテリっぽい人が多い。知識階級で上流社会人のような人たちである。こうした状況に私は今までなんの疑問も持たなかったのだが、地域に根ざす作曲を志向しているうちに疑問が芽生え、大きくふくらんできたのである。
 
 日本ではアベマリアとかミサ曲とかレクイエムなどは「宗教音楽」といわれているので、どれくらい宗教と関係があるのか調べてみたら、それらはキリスト教の宗教音楽なのだそうで、元々は宗教的行為として演奏されていたようであり、後々、アベマリアなどは単なる鑑賞音楽となったらしい。「そうか、だから教会でやっているんだ」と納得である。曲の終わりに「アーメン」と必ず歌うのも納得である。だから音楽というよりは「祈りの行為としての発声」ということが本質ということになる。そうだとすると日本でやっている演奏はなんなのだろう?。歌っている人たちはみんなクリスチャンなのだろうか。私のカミさんが入っている合唱団もやっている。カミさんはクリスチャンではないし他のみんなも違う。クリスチャンでもないのに祈りの歌を歌い、アーメンなどの崇拝言葉を言っている。祈る気持ちはさらさらなくて、ただ音楽として歌っている。これはなんなのだろう。院コンやロビコンでアベマリアを歌うのはどうしてなのだろう。なぜ歌いたいのだろう。聴く人はどう聴いているのだろう。大劇場の大ホールに集まった聴衆はどう聴いているのだろう。歌うほうも聴くほうも曲の意味が分かっているのだろうか。
 
 近頃はあちこちのお寺で西洋音楽のコンサートを開催する動きが見られる。今年の三月末には、奈良東大寺の盧舎那るしゃな大仏開眼行事でカメラータ神戸というコーラスグループが「被爆のマリアにささげる讃歌 アベマリア」を奉納した。お寺によってフォークソングだったりクラシック音楽だったりいろいろなジャンルのようだが、宗教音楽や崇拝行為がどれほど行われているかはよく知らない。
 
 日本の原初宗教は神道だがキリスト教も仏教も儒教も受け入れる寛容な国なので宗教色にはこだわらず、それが日本の良さなのだから、日本の在り方こそ世界に広めたほうがいいという論がある。そうだろうか。豊臣秀吉や徳川幕府はなんのためにキリスト教弾圧をしたのか。キリスト教に危険を感じたからだろう。その弾圧が徹底したためか、それとも、もともと日本人になじめなかったせいなのかキリスト教はさほど広まらなかった。したがって私たちの身辺で異教徒を意識することは殆どない。異教徒同士の摩擦もトラブルも全く見聞しない。だから、「日本の良さ」などと能天気な発想になるのではないのか。日本にヨーロッパ人やイスラム人などが同等の比率で住むようになったらほんとに摩擦はないだろうか。多民族が暮らす日本になったら院コンやロビコンでアベマリアが歌われるだろうか。大ホールの大コンサートと言えば特に年末あたりはメサイアやレクイエムの演奏が定番なのだが、キリスト系・イスラム系・仏教系・神道系の聴衆が集まって堪能するものだろうか。イラクやトルコなどは宗教によって居住区が異なっているようだし、自由平等を掲げるアメリカも民族によって居住区を住み分けていると聞く。日本人は差別部落問題など未だに解決しきれていないことでも分かるように些細な違いにこだわるところがある。他民族他宗教に寛容な国民かどうかは怪しいものがある。同じ国土で暮らすようになったらどうなるか分かったものではない。
 
 宗教における崇拝行為で考えてみる。崇拝行為とは仏式なら数珠を手に合掌し「南無阿弥陀仏」と唱え礼拝するような行為のことである。キリスト教なら十字を切って指を組み、頭を垂れて「アーメン」と唱える。神道なら二礼二拍手一礼。イスラムなら跪いて平伏し「アラーの神は絶対なり」と唱える。
 崇拝行為は冠婚葬祭儀式に最もよく表れる。クリスチャンの知人の結婚式に出席したときのこと、参式者に賛美歌の歌集が配られた。私はみんなの声の後を追いかけながら一応歌った。そして一応「アーメン」と呟いた。司祭者や友人は十字を切った。参式者は十字を切る人もいたし切らない人もいた。私はとても十字を切る気にはなれなかった。創価学会の葬式に参列した。会員たちは朗々と法華教を唱える。その様は教会で信者が賛美歌をうたう様と似ている。そしてアーメンと唱えるように南無妙法蓮華経と唱える。形態としてはどちらも似ている。
 
 キリスト教やイスラム教、ユダヤ教など一神教は他の神を信仰することを固く禁じ、崇拝行為はしてはならないことになっているそうである。或る教え子がエホバの信者でよく我が家の門口に立つ。「他の宗教は受け入れるのか?」と聞いてみると「信仰はその人の自由ですから認めますが、私は他宗教の崇拝行為はしません」とのことであった。或る旧家の嫁さんはエホバ信者であった。その家の主人が亡くなって葬式は仏式であったので嫁さんは出席しなかつたそうである。家族といえども妥協や譲り合いはないのである。総理大臣の靖国参拝は政教分離原則に違反するとして異を唱える人の中にはキリスト教関係者をしばしば見かける。公立学校で児童生徒に賛美歌を歌わせたら仏教界から批判が出るだろう。「冬の星座(木枯らしとだえて)」と「きよしこの夜」は音楽の教科書にあり、どちらも、もとは賛美歌だが、冬の星座は歌詞が作り変えられてあり、どちらも「アーメン」は外している。今までの日本は宗教音楽を宗教行為とは切り離して演奏してきた。だが、もし国内に他民族・他宗教が区分けして住むようになったら、信仰行為としての宗教音楽であることを意識せざるを得なくなるだろう。
 
 バッハやヘンデルやモーツァルトなどのヨーロッパの作曲家たちが宗教曲を作曲した動機を考えてみる。ヨーロッパ人の生活に深く浸透していたキリスト教のための作曲をすることは、まさに地域に根ざす作曲活動であったに違いない。それらの曲の演奏はするほうも聴くほうも信仰行為そのものであったのだろう。その宗教曲を二十一世紀の日本人、しかもキリスト教徒でもない人々が熱心に演奏する。これはいったいなんなのだろう。キリスト教系の学校の合唱団や管弦楽団なら当然であるが、キリスト教とはおよそ無縁の衆が演奏に熱を上げるのはどうしてなのだろう。十二月に入ればクリスマスコンサートと銘打つ大小の演奏会があちこちのホールで催され、街頭にもクリスマスソングが流れる。しかし誰もまじめにアーメンと唱えたりはしない。これはいったいなんなのであろう。
 
 学生の頃、ヘンデルのハレルヤコーラスを聴いて感激したことがある。その後、家庭を持ち子どもを育てる過程で、クリスマスソングのレコードを買って聴かせたり、玩具のツリーを飾りケーキにローソクをともしジングルベルを家族で歌ったりし、サンタクロースのプレゼントなるものを子どもの枕元に置いて喜ばせたりした。それに比べれば日本伝統の正月飾りや家庭行事はお粗末だつた。私の父があれほど熱心にやっていたのに。振り返って思うに、これは自覚に基づいた行為ではなく、戦後のアメリカブームに乗せられて無意識に流行を追っただけのことであった。七十二歳になり来し方を振り返り、孫の世話をしながら、地域に根ざす作曲活動をしようとして、地域に根ざそうとしたからこそ湧いた数々の疑問である。

 私が住んでいる所に立派なパイプオルガン付きのホールができたし、全日本こけしコンクールをやっている所だから、キリストやマリアを讃える曲ではなく、こけしを讃える合唱曲こそが地域に根ざすものであると考え、パイプオルガン伴奏によるこけし讃歌の合唱曲を書いたが、その意義に気づいてくださる方は未だいない。私ごとき「作曲家もどき」でもこんな疑問にぶつかったのだ。日本を代表するような作曲家はどうだったのだろう。黛俊郎まゆずみとしろう作曲の「涅槃交響曲ねはんこうきょうきょく」がある。仏教に基づく交響曲である。そのCDには奈良薬師寺の声明しょうみょうも納められている。松下真一という物理学者で作曲家は「仏陀ぶつだ」という交声曲を作曲している。お経そのものを壮大な声楽に取り入れている。このように、プロ作曲家たちはやはり、日本に根ざした宗教曲を試みていたのである。それらは宗教用というよりコンサート用のものだと思うが、どれも初演どまりで演奏されず、前々世紀のヨーロッパの宗教曲ばかりが演奏されているのである。これではプロ作曲家は飯の食い上げとなる。私はプロでなくてよかった。「作曲家もどき」でよかったとつくづく思う次第である。
  
 追記
 最初の原稿から9年経った今、イスラム原理主義者などが、他宗教の民族を攻撃し、芸術や文化を破壊し始めた。日本も攻撃対象とするとのメッセージも出されている。激しい勢いで人口が減少している日本に外国勢力が入ってくる可能性は十分にある。その時、「宗教音楽」はどうなっているのだろう。 015年7月8日記す 81歳    
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