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感想「フォルトゥナの瞳」

読了後の方向け。ネタバレ含みます。

読もうと思ったきっかけは、映画の予告だった。
神木くんと有村ちゃん。どちらも好きな役者さんだ。
原作を読んでしまったら、映画はどうしても物足りなく思ってしまいそうだが、予告の感じからして、「手が透ける」というのは文章よりも映像で見たほうが面白そう。
本がおもしろかったら、ぜひ映画も行こうと思って、読み始めた。

読了後、いや、終盤の「列車事故を止める」というキーワードが出てきた辺りで三浦綾子の『塩狩峠』が頭に浮かんでいた。
三浦綾子はキリスト教の護教文学の作家なので、どちらかと言えば、百田直樹とは信ずるところから全然違うだろうに、なんだろう、あの既視感は…
気のせいかもしれないけれど。

面白いな、と思ったのは、慎一郎の仕事内容である。
慎一郎を、コツコツと仕事をこなす実直で冴えない、裕福ではない青年として描く時、仕事内容は別に他のものでも、よかったと思うのだ。それは例えば、金属加工の工場でも、鳶職でも。
でも、彼が熱心に取り組む仕事は「コーティング」である。
その加工は、新しい、古いに関わらず、車をより、美しくするものだ。
新しいものを作り出す仕事ではない。
慎一郎は、遠藤の計らいで独立した新しい会社を大きくすることもなく、葵と結婚し新しい家族を作ることもないまま、人生を終える。
彼は、失われる運命にあった人々の命を救う。それは奇しくも「コーティング」という作業と同じように、老人も保育園児も関係なく、救った人間が美しく輝かせたことになるのではないだろうか。
しかも、慎一郎はどんな客が相手でも、仕事の手は抜かない。
自分の仕事、使命を全うする姿は、美しいものだと、私は思う。
ただ、慎一郎は自分勝手だなぁとも思う。
真理子の現状について、慎一郎が責任を感じる必要があるのか、私はよく分からない。
美津子は真理子が「あんな男」にひっかかったのは慎一郎のせいもある、と言ったが、そんなことあるか、と思う。
慎一郎と付き合っていれば、宇津井と付き合うことはなかったかもしれないが、「一生に一度くらいはフェラーリに乗ってみたい」と思う女の子が、本当に慎一郎と付き合って満足できたかどうか分からない。
宇津井がどんな人間か描写されていないのでわからないが、彼が真理子に慎一郎という彼氏がいたくらいで引き下がる男だったのだろうか。その点も含めて考えると、慎一郎は割と自分勝手だ。
慎一郎が、真理子を幸せにできたんじゃないか、と考える時点でかなりおこがましいと思うのだ。
しかし、その「自分勝手さ」「自分なら誰かを救える」という気持ちがなければ、慎一郎は列車事故を止めることしない。人を救うという行為は、ある意味とても自己中心的な行いなのかもしれない。

葵という存在について。
物語の最後、彼女も実は人の身体が透けて見えていたことが分かる、というオチ。
あー中途半端に映画のCM見とくんじゃなかった、と思わされた瞬間である。
映画のCMを見た時点で、葵もきっと慎一郎と同じなんだろうな、というのが想像できてしまっていたせいで、感動が全く起こらなかった。
自分と結ばれた瞬間全身透明になってしまった彼を見て、絶望的な気持ちになった、と明かされても私は「ふーん」というくらいだった笑

人間としては、慎一郎みたいな人間はほとんどいないだろう。
大半が自分の命が惜しい。それでいいと思う。
特殊なタイプの慎一郎が、なぜ特殊であれたか、という背景については、いまいち納得していない。
かつて家族を守れなかったから。
愛する人ともうすでに十分なほどに愛し合えたから。
慎一郎にとっては、それが死を選べるほどの重要なファクターだったのか。
養護施設や、職場での描写を通して、慎一郎は人間関係に対して臆病でドライである、と認識していた私には、彼の人を助けずにはいられないという感覚が少しわかりづらかった。
私も誰かの死期がわかるようになったら、慎一郎と同じ道を選ぶのだろうか。

総合的に言えば、映画のCM見るんじゃなかった…
いっそ映画見てから読めばよかった…

お前はもっとできると、教えてください。