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手紙を書く

すっかり手紙を書かなくなった。手紙でも、葉書でも。引越も多いし、そのお知らせや年賀状もマメでなくって、久しく定期的なやりとりをしなくなってしまっている。

昨日少し書いた、仲間が気になっているという穂高養生園のかわいいチラシを送るのと、それからヘナを使ってくれる友人に送るのとで、簡単なハガキを書いて添える。

葉書や便箋、それから封筒やらを用意する。特別な切手があったらそれも使いたい。封筒は市販のものでももちろんいいけど、何か手持ちの包装紙で作るのも好き。

あれこれ手作業でやるのは手間といえば手間なので、なかなか手が進まないときもあるけれど。
そうやっているうちに、あー、手紙や葉書を書いたり、作ったりが好きだったなぁ、と思い出してきた。

ある展覧会のポスターを再利用した封筒
裏面はゴールドのマステと切手シートにあった金シールの組み合わせ


さらに机や部屋がきれいになってから、と半年以上出しそびれていた、もとい放置⁉︎していた年賀状の返信の一部を暑中見舞いで書いて、これも郵便局で出してきた。

あーすっきりした。ここにも、流れができてきた!


だんだん、メールやLINE、メッセンジャーのやりとりが増えて。日本郵便はいつのまにか以前よりも配達速度をゆるめたものだから、emailに対して旧来の郵便がスネイルメイル🐌と呼ばれたのがさらに現実化して、手紙や葉書ってだんだんと使われなくなっていってる、みたい。


わたしもご多分にもれず、電子化を理由に⁉︎ちっとも手紙や葉書を書いてなかったのだけど、こうやって久しぶりに手作業で葉書を書いて(文字忘れそうになってるw)封筒を作って、ってやっていくと、その手の感覚や私信感が楽しい。


一昨年亡くなった祖母は「電話はいいけど葉書でもちょうだい」と言っていた。最期の頃には、そのどちらもする気がしなくて、していなかったのだけど。電話は聞き取りづらいことがあって、やりとりがときに乱雑になった。葉書は葉書で、良いことを書いてやろうとか見せびらかす感覚があるような気がして、面倒になって書いてなかった。

いずれも密接しすぎた祖母との関係性ゆえだったのだけど。没後、祖母がまとめて取っておいたわたしからの葉書や手紙を見つけて、恥ずかしい気持ちになった。もちろん、孫を思ってくれた気持ちはうれしかった。


「みんな、最近年賀状出さへんやろうけど、年賀状いいで。今でも300通位やりとりしてるわ」
携帯もメールも、インターネットにパソコンも使わない60代仙人が年初に話していたのを思い出した(注: 一緒に働くスタッフはその分、がっつり使ってやりとりしてるけど)。

年賀状を復活させるのが自然なのかな。あるいはクリスマスなのか暑中見舞いか、季節のお便りか。その人のことを思い出したとき、だっていいよね。

送る相手のことを思い出して、書く時間をつくる、っていい時間のあり方だなって思っている。



タイトル写真は奈良・室生にある龍穴神社の境内案内図。手描き感に惹かれた。

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